横浜・関内おちこち(遠近♫)


   私が生まれ、育ち、現在までずっと住まっている横浜について、事務所のある関内を中心に、
  その歴史的な遺構や見どころを訪ねます。まずは、時節柄、桜から・・・。


【1 横浜海岸教会と桜】

  大さん橋入口交差点から大さん橋方向に向かって30mほど先の左側に、開港広場に隣接して、
 「横浜海岸教会」があります。
  同教会は、明治5年(1872年)に設立された日本人のための日本で最初のプロテスタント
 教会です。
  明治8年(1875年)に献堂された建物は大正12年(1923年)の関東大震災で崩壊、
 消失し、木造の仮会堂を経て、昭和8年(1933年)3月12日に現在の会堂が献堂されたと
 いうことです。
  教会堂は1989年に横浜市認定歴史的建造物に認定されており、日没から午後10時までラ
 イトアップされています。毎月第3金曜日に礼拝堂が一般公開されます。

  海岸教会には一本の桜の古木(ソメイヨシノ)がありますが、開港広場から見ると、噴水が堤
 を流れる滝のように落ち、そのすぐ向こうに、教会の白亜の塔を背景に、見事な枝ぶりを誇って
 います。
  一本だけのソメイヨシノですが、周りとの対比もあって、趣のある、見る価値がある桜です。
 ライトアップされる時間帯は殊更のことでしょう。
  なお、ソメイヨシノの奥、教会寄りに、隠れるようにしてもう一本の桜の木がありますが、こ
 ちらはオオシマザクラでしょうか。             
                                   (30.04.02)


【2 街角の大砲】

  ⑴ 山下町90番地の大砲

    本町通りの「大さん橋入口交差点」から横浜公園方面に1本入った「シルク通り」(かを
   りとファンケルビルの間)を1ブロック進むと、右側のマンション敷地内に大砲が鎮座して
   います。
    その碑文には次のとおり記されています。

                   大砲の由来

    この大砲は、以前の倉庫会社から三門当社に譲り受けた物の一つで、残り一つは歴史
   資料館、一つは開港記念館に置いてあります。
    以前の倉庫会社が新築工事中にこの地より発掘されたもので、横浜開港に由緒ある貴
   重な史物で、歴史をたどれば嘉永七年米国使節ペリーは、艦船数隻を率いて日本に開国
   通商を迫り幕府は、会見の場所を横浜に設け使節と交渉せしむるに当り松代、小倉の二
   藩に警衛を命じた。松代藩佐久間象山は軍議役として和蘭新式野戦砲二門、牛角砲二門、
   木込銃の外槍刀兵等の装備にて威風堂々と出陣し幕府を驚愕させたが、遅命遂に黙止し
   がたく断腸の思いにてこの地に埋没したものです。
    以上が前所有者倉庫会社からの伝言です。
                                 平成拾七年七月

    幕末の争乱やロマンを感じさせるような伝言内容ですが、しかし、高価で貴重であった大
   砲を捨て去るなどということが考えられるでしょうか。
    他の大砲についてはどのような説明がなされているでしょうか。


  ⑵ 開港広場の大砲

    開港広場の開港記念館の塀際に、前述の大砲の一つが置かれています。

                旧居留地90番出土の大砲
                   口径11.5㎝ 全長282.5㎝ 重量1480kg

    外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していた
   スイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会[慶応元年(1865)創立]があり、明治維新
   の際の戊辰戦争中は武器の輸入も行っていました。昭和34年、同社跡地で建物の基礎
   工事中に大砲が見つかり、掘り出され展示されておりましたが、平成15年(2003年)
   横浜市に寄贈されました。この大砲は、鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印
   度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲です。使わなくなった大砲を錨に作り変え、
   横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、大正12年(1923年)の関東
   大震災の時に、地中に埋まってしまったのではないかと推察されます。
    明治43年に出版された書籍に、同社の「倉庫の入り口に明治初年武器を扱っていた記
   念として大砲が備え付けられていた」という記載があります。
    明治初期の外国人居留地の外国商館戸取扱商品並びに輸入先がわかる遺品として、貴重
   な資料です。
                      平成15年12月 横浜市教育委員会


  ⑶ 歴史資料館の大砲

    残る一つの大砲は、歴史資料館の正面玄関の前に展示されています。
  
               旧居留地90番出土の大砲

    この大砲は、旧山下居留地90番(現在の横浜市中区山下町90番地))地中から、
   昭和34年にオランダ製の11ポンド砲とともに出土した帝政ロシア製の32ポンド砲で
   す。
    出土地では、かつてスイスの商社シーベル・ブレンワルト商会(慶応元年・1865
   年創立)が営業していました。この大砲は、同商会の取扱商品のひとつで、使われな
   くなった大砲を錨に作り変えて、横浜に出入りする船舶に販売しようとしたもので、
   関東大震災によって地中に埋まってしまったものと推定されます。 
    幕末・明治初期の外国人居留地と、そこで営業した外国商館の活動を知ることがで
   きる貴重な資料で、横浜教育委員会より当館へ委託されたものです。
              口径16.5cm 前兆220cm 重量1690kg

    なお、この大砲には、鉄の鎖が取り付けてあります。


    佐久間象山が・・・という説明には、幕末のロマンがありますが、大砲を捨て去るという
   ことは考え難いこと、歴史資料館前の大砲には、いかにも錨であるように鉄の鎖が取り付け
   られていることからすると、外国の商社によって、船舶用の錨に作り変えられたものという
   説明が正しいのではないでしょうか
   
                                   (30.04.05)


【3 開港広場】

  横浜を語るには、やはり開港の歴史に触れることなしにはできません。日米和親条約(当時の
 正式名は「日本國米利堅合衆國和親条約」であり、神奈川条約ともいわれます)締結の地である
 開港広場を訪れてみましょう。
  開港広場は、大桟橋通りと海岸通りが交わる「開港広場前交差点」の横浜公園寄りの角、大桟
 橋埠頭の入口にあたるところにあります。

  嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー提督は、フィルモア大統領の親書を携え、4隻からな
 る艦隊を率いて浦賀に来航し、幕府に開国・通商を求めたところ、幕府から1年の猶予を求められ
 て退去しました。
  翌年の嘉永7年(1854年)、再びペリー提督の艦隊(7隻)が江戸湾に来航し、折衝の結果、
 幕府は当時の武蔵國久良岐郡横浜村字駒形に応接所を設け、約1ヶ月の協議後、12箇条からなる
 「日米和親条約」を締結しました。
 
                   日米和親条約の地

        安政元年(1854年)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の
        海岸で会見、和親条約を結んだ。これは神奈川条約ともいわれ、
        日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。歴史的舞台と
        なった応接所の後は、現在の神奈川県庁の付近である。
                              横浜市・神奈川県
                              横浜市観光協会

  ⑴ 日米和親条約
  
    北大西洋で捕鯨を行い、また清や東アジアとの交易のために太平洋航路が必要であったア
   メリカは、燃料、水、食料の補給のための寄港地として日本の港が必要であったことから、
   日本との間に、まずは補給と人身保護を主な目的とする和親条約を締結することとしたもの
   です。

    この調印を契機として、幕府は、イギリス、ロシア、オランダとの和親条約を締結するこ
   ととなり、鎖国体制が終焉しました。
  
    概略

    ・ 日本と合衆国は、両国民の間に、人・場所の区別なく永久に和親を結ぶ。(1条)
    ・ 伊豆下田を即時、松前地箱館を1年後に開港し、薪水、食料、石炭、欠乏の品の供給
      を受けることができる。(2条)
    ・ 合衆国の船が日本海浜に漂着の際は扶助し、漂民を下田又は箱館に護送する。(3条)
    ・ 下田、箱館に逗留中の合衆国人は、長崎のオランダ人、中国人と異なり行動を制限さ
      れることはない。(5条)
    ・ 合衆国に片務的最恵国待遇を与える。(9条)
    ・ 遭難、悪天候を除いて、下田、箱館以外の港への渡来を禁じる。(10条)
    ・ 両国政府のいずれかが必要とみなす場合、条約調印の日から18ヶ月以上経過した後、
      合衆国政府は下田に良治を置くことができる。(11条)
    ・ 両国はこの条約を堅く遵守する。18ヶ月内にこの条約を批准する。(12条)


  ⑵ 玉楠の木と横浜開港資料館

    「たまくす」は、タブノキの別称ですが、クスノキ科タブノキ属の常緑高木で、照葉樹
   林の代表的樹種のひとつであり、よく神社の鎮守の森に大木として育ちますが、かつて、
   横浜村の海岸と丘陵に広く見られたようです。

    開港広場に隣接する「横浜開港資料館」の中庭に、「たまくす」の木がありますが、ペ
   リー来航時に随行した画家ハイネが「ペリー提督横浜上陸の図」、「水神の祠」で描いた
   木として、「玉楠」と呼ばれ、横浜開港のシンボルとされており、有形文化財となってい
   ます。

    「玉楠」の木は、慶応2年(1866年)の大火により焼失しましたが、イギリス領事館
   となったその庭において新たに芽吹き、明治・大正期において横浜を代表する名木となり
   ました。
    そして、大正12年(1923年)の関東大震災によって、領事館とともに焼けて、再び被
   害を受けましたが、その根元から双葉が萌えだし、若木へと再生しました。1930年6月、
   イギリス領事官の再建に先立って、その若木が、海岸寄りに10m移動した現在の地に移植
   されました。 
    黒こげとなった玉楠の廃材で象られた「ペルリの黒船」の壁掛けが、開港資料館2階の
   展示室通路に飾られています。

    開港資料館は、横浜開港百年を記念した「横浜市史編集事業」の資料を基礎として、元
   イギリス領事館(1931年建造、1972年まで領事館として利用)を使用して1981年に開
   館し、幕末から昭和初期までの横浜の歴史に関する資料を展示・公開しています。


  ⑶ 開港広場の遺跡、記念碑 

    開港広場には、先に挙げた「日米和親条約締結の地」の記念碑の他にも、いくつかの遺
   跡や記念碑があります。

   ・時計塔

     「街角の大砲」の項で紹介した「旧居留地90番地の大砲」が、開港資料館の塀際に
     展示されていますが、それと並んで、往時の姿を模した時計塔が建っています。

                  時計塔について

        この時計塔は、右図のポールをデザインしたものです。
        1891年(明治24年)頃、このポールは大桟橋付近に設
        置されており、暴風雨の際に旗を掲げて港近くの船に信
        号を送っていたものです。
           1991年5月 寄贈 住みよい中区をつくる会

   ・下下水道の機構

     明治15頃築造の、日本人が設計した我が国最初の近代下水道施設が昭和57年に
    発見され、国登録有形文化財に指定されていますが、ガラス越しに遺構を見ることが
    できるようになっています。

         明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水管
                         (国登録有形文化財)
 
       明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地 (現在の山下町日本
      大通の一部)一帯で下水道改善工事が実施され、卵型レンガ管徒と陶管の
      下水道が整備されました。
       その下水幹線7本とマンホール37ヶ所はレンガ造りで、材料のレンガは、
      東京府小菅の東京集治監のレンガ工場に注文して築造されたものです。
       設計者は東京大学理学部第1回卒業生、当時神奈川県土木課御用掛の三田
      善太郎氏で、これは日本人が設計したわが国最初の近代下水道と言えるでし
      ょう。
        このマンホールは明治15年頃築造されたもので、昭和57年4月にこの公
      園の整備中に発見され、当時のままの状態で保存されています。 平成10年
      9月に下水道施設ではわが国初めての国登録有形文化財に登録されました。
                                 横浜市下水道局
                                  平成10年9月

   ・日米交流150周年記念植樹とその碑
 
     2004年4月3日に日米交流150周年を祝って記念植樹がされています。


   ** 日米修好通商条約

      安政3年7月21日(1856年8月21日)タウンゼント・ハリスが日米和親条約によ
     る総領事として下田に来航し、その作成・提出に係る草案を基に15回の交渉を経て、
     安政5年6月19日(1958年7月29日)に神奈川沖・小柴に停泊した米国海軍外輪フ
     リゲート艦ポーハタン号の艦上で条約が締結されました。
      その後、幕府は、イギリス、フランス・オランダ・ロシアとも同様の条約を結び
     ました(安政五か国条約)。
      外国に領事裁判権を認め、関税自主権がないことなどから不平等条約であり、19
     76年から各国との間で条約改正交渉が始められましたが、困難な交渉となり、日清
     戦争直前の1894年7月16日の日英通商航海条約の締結によってようやく領事裁判権
     が撤廃され、関税自主権の回復は、日露戦争後の1911年2月21日の新日米通商航海
     条約の締結を待たねばなりませんでした。

      条約の3条では、下田、箱館に加え、神奈川(安政6年6月5日(1859年7月4日)
     但し、神奈川開港6か月後に下田は閉鎖)、長崎(神奈川と同じ)、新潟(安政6年
     12月9日(1860年1月1日))、兵庫(文久2年11月12日(1863年1月1日))を
     開港し、江戸(文久元年12月2日(1862年1月1日))、大坂(文久2年11月12日
     (1863年1月1日))を開市するとしました。

      幕府は、ここも神奈川のうちであるとして当時寒村であった横浜村を開港地とし
     たのですが、開港が横浜発展の礎となりました。
 
      ・井伊直弼像
        西区に掃部山公園がありますが、江戸時代には不動山という海に面した高台
       で、その後、鉄道用地として利用されて鉄道山と呼ばれていました。それが井
       伊家の所有となり、横浜開港50周年を記念し、横浜開国の恩人として井伊直弼
       像が建立され、その官位の掃部頭から掃部山と呼ばれるようになりました。
        大正3年(1914年)に横浜市に寄贈されて掃部山公園として整備されました。
        第二次世界大戦中の金属回収指示によって取り払われた銅像は、昭和29年
      (1954年)に開国100執念を記念して横浜市によって再建されています。




【4 関内と関外】

  横浜の中心部となる官庁街及び商業地域の一帯は「関内」と呼ばれており、JRと横浜市営地
 下鉄にも「関内駅」があります。しかし、関内は、住居表示としての地名ではなく、その名を冠
 した町はありません。
  関内とは、大岡川、派大岡川(現在の首都高速道路横羽線)、中村川と海によって囲まれた、
 横浜開港にともなって開港場とされた地域であり、国土交通省の都市景観百選に選定されていま
 す。
  関内の「関」は関所、関門を意味しており、関の外にあたる昔の吉田新田を主とした地域を
 「関外」と呼んでいます。
 
  幕府は、日米修好通商条約(安政五カ国条約)に基づき神奈川を開港することになりましたが、
 要衝である東海道に直結する神奈川湊・神奈川宿を避け、対岸の寒村の横浜村を神奈川の一部と
 称して安政6年(1859年)6月2日に開港しました。
  翌年には神奈川宿から横浜村への道(横浜道)や開港場を作りましたが、大岡川の分流の吉田
 川に「吉田橋」を架け、関所を設けて、その他の3本の橋にも関所を設けて、そこを通らなけれ
 ば開港場に行けないようにしたものです。
  諸外国の公使は、条約どおりに神奈川の開港を求め、神奈川宿周辺に領事館を開設しましたが、
 開港場での取引が活発化するにつれて神奈川湊が衰退し、開港場も整備されるなどの既成事実が
 積み重なって、横浜を受け入れました。

  なお、「神奈川」の名は、京急仲木戸駅近くを流れていた長さ300mほどの小川に由来する
 ということです。
  平成2年(1990年)に当時の建設省によって10月4日が「都市景観の日」と定められました
 が、翌年、関内周辺地区は、「都市景観大賞」10件の一つとして建設大臣賞を受賞しています。
 その後、企画が拡大し、2000年までに「都市景観100選」が選定されています。



  ⑴ 吉田橋

    吉田橋は、伊勢佐木町と馬車道を結ぶ橋で、現在の橋は5代目になります。
    幕府は、神奈川の開港にあたり、横浜村に開港場を設け、東海道から開港場まで横浜道を
   通し、開港場との間に、安政6年(1859年)に仮橋を、3年後に木造の本橋を架けました。
    しかし、居留外国人らから馬車の通行に不適との苦情を受け、明治2年(1869年)、お雇
   い外国人のイギリス人土木技師リチャード・ブラントンにより鉄製の無橋脚トラス橋に架け
   替えられました。
    2代目となるこの橋は、長崎の「くろがね橋」に次ぐ日本で2番目の鉄製橋梁であり、日
   本初の無橋脚鉄製トラス橋です。
    橋の完成から5年ほどの間、馬車と人力車から通行料(橋税)を徴収したことから、「鉄
   (かね)」と「金(かね)」をかけて「かねの橋」と呼ばれました。
 
    碑文

    安政六年(一八五九)六月二日、横濱が開港となって交易場、貿易港として栄えるにした
    がい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設す
    るとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その
    後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
    吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたも
    とに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
    関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)二月に吉田町側に移設
    されました。
    関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、
    その関門は明治四年に廃止されました。
    
    平成六年三月
    横浜市教育委員会



  ⑵ 堀川に架かる橋
  
    堀川とは、中村川の、「西の橋」より下流部分をいいます。
    中村川は、大岡川河口の入江を釣鐘型に干拓・造成した吉田新田(1667年)により、大
   岡川の分流として人工的につくられた河川であり、現在の元町付近で直角近くまで曲がって
   派大岡川に合流し、その派大岡川が吉田新田と太田屋新田(横浜村側)とを隔てていました。
    開港場となった横浜村は、元町付近から伸びる洲干島(宗閑嶋)と呼ばれる砂州上にあり
   ましたが、居留外国人とのトラブルを避けるため、砂州の付け根にあたる部分に堀川を開削
   し(1860、万延元年)、中村川から一直線に東京湾に通じるようにして、山手の丘と分断し
   ました。
    これによって、開港場は、大岡川、派大岡川、中村川(堀川)と海によって四方を囲まれ、
   出島のようになったのです。 
    この堀川の開削とともに「谷戸橋」、「前田橋」が、翌年(1861、文久元年)には「西の
   橋」が架けられましたが、これらの橋にも、吉田橋と同様に関門が設けられました。
  
    このようにして、関内と関外が形成されたのです。


  ⑶ 関内・町の形成
 
    開港により、波止場の前、現在の県庁のところに「運上所」が置かれ、税関業務と外交業
   務が行われましたが、その運上所の東側を外国人居留地、西側を日本人町としました。
  
    日本人町には、開港と同時に、海辺町、北仲通、本町、南仲通、弁天通の5町が、そして
   同年中に、少し遅れて太田町が定められました。
    吉田橋から海岸に向かう道(後に拡張されて馬車道となる)が作られて、本町1丁目とな
   り、右折して、本町2丁目から5丁目となっていました。
    その他の海辺通、北仲通らは、本町1丁目に接続して、それぞれ2丁目から始まり、5丁
   目までとなっていました。
    その内陸側は、太田屋新田となりますが、ほとんど沼といったような状態だったようです。

    慶応2年(1866年)の大火後、横浜居留地改造及競馬墓地等約書が調印され、これを機
   に、日本大通が作られ、拡幅、改修されて馬車道が完成しました。
    また、内陸側の太田屋新田が埋め立てられ、相生町、高砂町(後に廃止)、住吉町、常磐
   町、真砂町、尾上町、港町が作られました。

    明治3年(1870年)に神奈川県庁が設けられると、県庁を基点に県庁寄りから1丁目、
   2丁目、3丁目・・とするように改め、現在のとおりとなりました。

    外国人居留地は、地番がつけられ、波止場に近いところが1番で、ジャーデン・マジソン
   商会があり、堀川側が20番となり、2列目が21番から始まります。
    文久元年(1861年)には、居留地の拡張のため、横浜新田が埋め立てられ、後に、現在
   の中華街が形成されました。
    更に、太田屋新田も埋め立てられましたが、これが新居留地と呼ばれる地域です。


  ⑷ 洲干弁天社―厳島神社
 
    洲干(宗閑)島と呼ばれた砂州の先端に、横浜村の鎮守として、現在の南仲通から太田町
   の5、6丁目にまたがる1万2000坪の敷地からなる「洲干弁天社」がありましたが、境
   内に7つの池があって清水が湧き出ていたことから、「清水弁天」とも呼ばれていました。
    創建は、治承年間に源頼朝が伊豆の土肥の杉山から勧請したと伝承され、足利氏満が般若
   心経を奉納し、太田道灌が社殿を再建し、徳川家光が朱印地としました。
    本尊の弁財天像は弘法大師の作と伝えられており、本尊は、別当寺の仮殿に安置して上之
   宮杉山弁天と称し、本社には前立の像を置いて下之宮清水弁天と呼びました。
    現在の神奈川県立歴史博物館のあたりに一の鳥居があり、四の鳥居まであったようですが、
   開港後、参道として弁天通が整備されました。
    風光明媚な地として知られ、対岸の神奈川宿からの眺望15景の一つに数えられていまし
   た。
    
    その後、明治政府の神仏分離によって「厳島神社」と改称し、街区拡張の埋立工事のため、
   1869年(明治2年)に、関外である現在地の羽衣町に移転しました。
    現在は、宗像三女神を祭神としています。


  ⑸ 関内の新田
  
    江戸時代には新田開発が奨励され、横浜においても10を超える新田開発が行われましたが、
   開港時の横浜の発展にとって重要であったのが、関内地区のうち大きな部分を占める横浜新
   田と太田屋新田でした。  

    横浜新田は、村請新田で、現在の中華街にあたる地域を中心としており、文化初年(1804
   年)ころには完成していたようです。
    横浜新田は、文久2年(1862年)に埋め立てられて、外国院居留地として造成されていき
   ますが、同年には、最初の様式競馬場(横浜新田競馬場)が仮設として1年に限り設けられま
   した。
    現在の中華街の街路は、周辺地区の街路に対して斜めになっていますが、その理由としては、
   新田開発時の事情や外国人居留地として整備した際にあぜ道をそのまま利用したことなどが考
   えられているようです。

    太田屋新田は、三河出身の太田屋左兵衛によって嘉永3年(1850年)から安政3年(18
   56年)にかけて開発され、太田町、相生町、住吉町、常磐町、尾上町、真砂町、港町にかけ
   ての一帯、横浜公園及び中華街西側の山下町の一角を含む135,000坪余の地域となり
   ます。しかし、まだ沼地も多く残っていました。
    開港後、太田屋新田を埋め立てることによって関内地区の発展の基盤が作られたのです。


  ⑹ 関外の新田開発
  
    関外の新田開発としては、現在の浅間下交差点付近から吉田橋まで、開港場に至る「横浜
   道」築造の基礎となった岡野新田や平沼新田など、帷子川の河口を埋め立てた新田開発もあ
   りますが、何といっても、一番古く、大規模かつ有名な新田開発は、大岡川河口を開墾した
   吉田新田です。

    吉田新田は、江戸の材木商吉田勘兵衛が明暦2年(1656年)に開墾工事を開始し、苦難を乗
   り越えて寛文7年(1667年)に完成した新田で、当初「野毛新田」と名付けられましたが、
   将軍徳川家綱がこれを称え、「吉田新田」と改称されました。
    開墾地は、大岡川の河口であった現在の日枝神社(南区山王町)付近を頂点とし、大岡川
   と中村川に囲まれた関内駅付近までの釣鐘状の広大な土地であり、約35万坪(115万5
   千㎡)ということです。
    土砂は中村大丸山(現在の市大病院の裏側)、天神山(現在の日ノ出町駅裏山)から、潮除
   堤の石は伊豆や安房から運ばれたようです。
    この新田開発により、大岡川の下流と中村川が人工的につくられました。
 
    寛文3年に新田の鎮守として江戸の山王社(日枝神社)が勧請され、「お三の宮」と呼ば
   れて横浜開拓の守護神とされています。


     * 日枝神社

      古来、山王社、山王大権現、山王宮と称せられていたことから「おさんの宮」となり、
    それに「おさん人柱伝説」が加わって、現在では「お三の宮」、「お三さま」と呼ばれて
    親しまれています。
      大山咋命(おおやまくひのみこと)を主祭神としており、「咋」は「主」の意で、大
    山の主であって山、水を司り、武道の祖神、酒造の守護神であり、万物の成長発展、産業
    の生成化育を守護されています。お使いが「神猿(まさる)」であることから、魔が去る
    としえ、厄除け、勝負事にご利益があるとされ、「おさん」から、安産と子の成長の神様
    としても信仰されています。

     お三人柱伝説は、吉田新田の開発が災害によって中断するなど難工事であったため生ま
    れた伝説であり、いくつかの話になって伝わり、芝居やミュージカルにもなっています。
 
     私が子供のころは、一帯が埋立地であることや、そうした由来があることを知らずに、
    「おさん様」の名を口にしていました。



【5 横浜の川】


  関内・感慨とその周辺部には、かつては名前のついた川が12ありましたが、現在は4つの川
 が残るのみです。
  現在も残る4つの川は、大岡川、中村川、(中村川の下流ともいうべき)堀川と掘割川であり、
 姿を消した川は、小松川、派大岡川、吉田川、新吉田川、富士見川、真富士見川、日の出川、桜
 川の8つの川です。
 
  350年ほど前に吉田新田が開墾された際、大岡川の河口地点からその分流として大岡川の下
 流部分と中村川が人工的につくられ、その間の釣鐘状の開墾地の中央に、分流地点から海に向か
 って一直線に新川と名付けられた用水路が作られました。

  その後、横浜開港後の発展に伴って市街化されていったかつての吉田新田に、縦横に走る運河
 が作られ、物資輸送に利用されていたのですが、高度経済成長とともに鉄道やトラックなどの陸
 上交通機関が整備されるにつれ舟路としての利用価値が薄れ、埋め立てられていったのです。



  ⑴ 小松川は、関内にあって、明治4年に太田屋新田を埋め立てて相生町、住吉町などの7町
   がつくられた際にできた川です。
    しかし悪水堀と呼ばれる部分があり、臭気がひどく構造も不完全であったため、翌明治5
   年9月には、高島嘉右衛門によって埋め立てられました。



  ⑵ 明治3年から始まる吉田新田南一つ目沼の埋め立て工事とともに吉田川の整備が進みまし
   たが、計画のあった中村川と交差し掘割川に抜ける運河については進捗していませんでした。
    蚕種等の輸出で成功した群馬県出身の伏島近蔵は、発展が遅れていた吉田新田地区の振興
   を企図し、吉田川と掘割川を結ぶ運河の開削を願い出て、5年をかけた工事により明治29
   年2月に竣工させました。これが全長1412.5mの新吉田川です。翌年には、新吉田川
   と大岡川を結ぶ235.5mの新吉田川を開削しています。

    伏島は、横浜市中心部の舟路を整備し、他方で利用価値の低い富士見川を埋め立てて市街
   化するなどし、港の後背地である吉田新田地区の発展に寄与しました。

    昭和58年に、吉田川を埋め立てて大通り公園が完成しましたが、一連の工事により新吉
   田川、真富士見川も姿を消しました。
    また、駿河橋付近畏あった伏島の顕彰碑も日枝神社境内に移設されています。


  ⑶ 日の出川は、吉田川から不老町、翁町、扇町、寿町、松陰町を貫いて翁橋付近で中村川に
   通じる全長約600mの運河であり、明治6年に不老町等の埋立地の7か町とともに誕生し
   ました。
    日の出川の両岸には、材木店、石材店等が軒を連ねていましたが、狭い川幅と浅い水深の
   ため大型船の航行に不適であり、大正13年(1924年)に埋め立てによる公園化が検討
   されましたが、このときは、日の出川を利用する事業者の働きかけにより、存続・改修を求
   める決議案が横浜市会で可決されました。
    しかし、一部住民は埋立期成同盟を組織し、川によって町が分断されていること、利用価
   値は一部特殊業者に限られていることなどを理由として埋立賛成の運動を展開し、再度の議
   論が生じたのですが、このときも僅差で日の出川は存続することになりました。
    それから30年ほど経って、陸上交通機関の発展や第二次大戦後に横浜大空襲の瓦礫や残
   骸の捨て場に指定されたことなどから、昭和28年(1953年)から3年かけて埋め立て
   られ、現在は市道となっています。


  ⑷ 「富士見川」は、舟の往来が少なく、もっぱら排水路としての役割を担っていましたが、
   住民が悪臭と交通の不便に悩まされていたこともあり、明治29年(1896年)に埋め立
   てられました。

    「桜川」は、当初「桜木川」と名付けられましたが、鉄道敷設に際し、野毛浦(現在の野
   毛町から花咲町にかけて)の先を鉄道用地として埋め立てた際に残された水路で、紅葉橋、
   錦橋、瓦斯橋、雪見橋、花崎橋と5つの橋が架けられました。
    桜川の埋め立ては、第二次世界大戦後の昭和23年(1948年)から始まり、6年後に
   完了しています。


  ⑸ 昭和40年(1965年)に飛鳥田横浜市長の下で横浜市六大事業が策定されましたが、
   吉田川と派大岡川の川跡利用計画として、高速鉄道計画と高速道路網計画との調整が問題と
   なりました。
    派大岡川の上を高架とし、吉田川の上にも支線を設ける都市計画決定と事業決定がなされ
   ましたが、高架ばかりとなることから馬車道や伊勢佐木町の商店街が反対し、市長も反対を
   表明したことから、建設省は首都高速を地下化する方向となり、大通り公園の地下に地下鉄、
   派大岡川の地下と中村川の上に首都高速という横浜市案が採用されました。
    首都高は、多くの工事や構造が重なる難工事となり、変更があったりしましたが、最後に
   横浜公園―石川町ジャンクション間が昭和59年(1984年)に供用開始となり、完成を
   みました。
    なお、地下鉄関内駅は、昭和51年(1976年)の横浜―伊勢佐木長者町間の開通時に
   開業しましたが、JR関内駅は、昭和39年(1964年)の桜木町―磯子間の開通時に開
   業しています。


  ⑹ 大岡川の記憶

    私は、大岡川下流の下町に生れ、12歳ころまで育ちました。
    家の前の道路と並行して大岡川が流れていましたが、その当時は、一部地域を除いて川岸
   に柵などは設けられておらず、道路からいきなり大岡川の垂直なコンクリートの護岸になっ
   ていました。川端の道路上で焚火をして、その灰を板切れで川にきれいに押し落とせるとい
   ったらお分かりいただけるでしょうか。
 
    母親の話では、昔は大岡川も水がきれいで泳ぐことができたし、繁殖時期には驚くほど沢
   山のモクズガニ(別名モクゾウガニ)が見られたということでした。
    しかし、私が遊んでいたころは、下水やゴミの投棄によりドブ川に化しており、ヘドロが
   堆積し、島のようになっているところもありました。それでも、川に降りたり、ザリガニを
   捕まえ、鳥もちでギンヤンマをとったりと大岡川を遊び場にしていました。
    ただ、柵もない状況でしたから、時に子供が落ちて亡くなるという悲しい事故も起こって
   いました。
   
    私の家は木工所でしたが、対岸も含めて材木店、製材所、木工所等が数多くありましたが、
   それは、大岡川が舟運に利用されていた名残なのでしょう。
    隣の祖父の家が燃料店でしたが、ダルマ船から薪や炭を陸揚げしていたのを見ていた記憶
   があります。おそらくは、舟運が利用された最後のころだったのではないでしょうか。

    水もきれいで舟運に利用されていた大岡川が、一時は見捨てられていたものの、再び桜の
   名所として市民に親しまれるようになって、喜ばしい気持でいっぱいです。



【6 記憶の断片】

  ⑴ 天国と地獄
   
    黒澤 明監督の「天国と地獄」(昭和38年公開)は、横浜が舞台となっています。伊勢
   佐木町や黄金町のロケのほかセットでの撮影が行われていて、必ずしも当時の横浜そのまま
   ではありませんが、その雰囲気を見事に映し出しています。
    三船敏郎が演じる製靴会社の重役の豪邸は、(天国から)街を見下ろすシーンで使われた
   セットが浅間町に、(地獄の)街から見あげるシーンでのセットが南太田の丘の上につくら
   れました。
    子供のころ、ダンゴ山と呼んでいた南太田駅の裏山の頂上に突然大きな家が出現し、「あ
   れ、あんなところに家があったっけ」と思っていたのですが、いつかまた、気づかぬうちに
   なくなっていました。
    後に、映画を見て、その背景を知り、ダンゴ山のあの家が「天国と地獄」のセットだった
   と知りました。また、その「豪邸」があったころ、大岡川の昔の河口付近にある蒔田公園に
   巨大なテントが設置されていたのですが、そこに、セットが組まれていたのではないか・・・
   とずっと思っていました(調べてもその資料は出てこないのですが)。
    映画では、何故か、麻薬街として描かれた黄金町で「菅井きん」さんが演じられたシーン
   が真っ先に想い出されます。
    黒澤監督には誘拐罪の刑罰が軽すぎるという思いがあったとのことですが、放映後模倣犯
   が相次ぎ、刑法一部改正の契機となったということです。


  ⑵ 横浜の「浜」
   
    私が子供の頃は、まだ大規模な海岸部の埋立が行われていず、自然の浜が残っていました。
    父親が本牧の出で、祖母や親戚が住んでいましたが、漁をしていた家もあったのか、海苔、
   渡り蟹、アサリその他海産物は買わなくても済んでしまうようでした。
    そのころ食べた渡り蟹の味はもう覚えていないのですが、どんな蟹よりもおいしかった気
   がします(郷愁でしょうか)。
    三渓園の庭師と墓守をしていた父親の叔父のところへもよく連れていかれましたが、その
   近くの浜でパンツ一枚になって泳ぎましたが(泳げないので遊んだ?)、砂浜ではなく玉砂
   利を敷きつめたような浜だったっと記憶しています。
    三渓園にも岩場と砂浜があり、門前の二軒の茶店(現在は一軒のみ)で熊手を買って潮干
   狩りをした者でした。海岸が埋立てられてしまい、三渓園の魅力も半減してしまったという
   べきでしょう。
    金沢八景も、ハゼ釣りのメッカでしたし、干潟には蟹やら何やらが沢山いて、飽きること
   なく遊ぶことができました。
    八幡橋の先はもう海で、釣りができましたし、橋のたもとでは、よくシャコを売っていま
   した。
    現在は内陸部に移転してしまいましたが、浜小学校の裏はすぐに長い渚になっており、潮
   干狩りもできましたが、ある台風の翌日、アサリをバケツ一杯持って市電に乗っていると、
   すぐ脇を広報車が「アサリが弱っていて中毒を起こすといけないので食べないでください」
   と拡声器で呼びかけながら通っていきました。そのアサリを食べたのか食べなかったのかは
   記憶にありません・・・。
    横浜にも、浜があり、豊かな自然に触れることができた時代がありました。


  ⑶ 横浜の街と郊外
   
    私が子供の頃は、市街地でも舗装されているのは市電が通るような大通りのみで、裏道は
   まだまだ未舗装の状態でした。
    比較的交通の頻繁な道路では、凹凸ができてしまい、雨が降ると小さな水たまりがたくさ
   ん出現しましたが、あるとき、遊びながら水たまりを伝いながら歩いて行くと、5円玉がザ
   クザクと出てきたことがありました。悪路のため、釣銭用に纏めたものを落としてしまった
   のでしょう(これもどうしたか、記憶にありません)。
    上大岡駅周辺は、まだほとんど開発されていず、低湿地であったため一面の田圃でした。
   兄らとザリガニ捕りに行った幼い私は、ザリガニを見つけて喜んで田圃に落ち、晴れなのに
   雨合羽を着せられて電車(京浜急行)に乗って帰ったというのが最初の記憶です(何度も聞
   かされ自分の記憶のように思っているのかもしれません)。
    「あの頃に、上大岡の駅前を買っておけばな」という父親の冗談を何度聞いたことでしょ
   うか。
    大きくなって、ホンチ(戦わせて遊ぶ蜘蛛)を捕りに行ったのも上大岡のお寺か、お墓で
   した。少し遠征して、下永谷の方まで遠征するときは、吉原から平戸に向かうアップダウン
   のある未舗装の道路(現在の環状2号線)をバスで行くのですが、一番後ろの席に座り、頭
   が天井に着くくらい飛び跳ねるのを面白がっていたものです。
    そのころは、「浜」だけではなく、横浜の内陸部でも、まだ多くの野山や自然が残されて
   いました。


  ⑷ 子どもの遊び

    私が子供の頃は、デパート以外はほぼ個人商店でしたが、駄菓子屋やもんじゃ焼き屋があ
   ちこちにあって子供のたまり場になっていました。
    紙芝居もよく廻ってきて、くり抜いてビー玉が通るともう一つもらえるお菓子などを食べ
   ながら見ていたものでした。
    伊勢佐木町7丁目の一六地蔵の縁日は賑やかで活気があり、うきうきして小銭を握りしめ
   て出かけたものでした。たらいのような容れ物の中央でゲンゴロウを落とし、泳ぎ着いた枠
   に書かれた数字の数だけ揚げ餅を貰えるという面白い出店もありました。
    今はもう売っていませんが、銚子屋の小豆最中アイスがおいしくて、縁日やそろばん塾の
   帰りによく食べたものです。  
    男の子の遊びは、ビー玉、メンコ、ベーゴマといったところで、あとはソフトボールでし
   ょうか。
    ソフトボールは、ドンドン商店街を通ってコーショウでやっていました。その当時はよく
   分かりませんでしたが、清水ヶ丘にあった昔の「高等商業」、横浜国大の経済学部の構内の
   グラウンドで、人がいるのをあまり見たことがありませんでした。
    また、永田方面にも遠征してザリガニを捕りに行ったりもしました。駄菓子屋でイカを買
   って咬みながら行き、味がなくなったところで紐につるしてザリガニの餌にするわけです。
   地元の子供のグループと遭遇し、逃げ出すといったこともありました。
    ホンチ(戦わせて遊ぶ蜘蛛)は千葉にもあるようですが、横浜の子供の遊びで、マッチ箱
   の大きさくらいの箱に3分割された引き出し様のものが2列入っていて、その1区画にホン
   チを入れ、プレパラート様のガラスで覆って戦いを見るというものです。
    ホンチを捕りに上大岡方面のお墓やお寺によく遠征したものでした。


  ⑸ ホタル
   
    私の記憶に残っているのは、小机のホタルの情景です。それ以前にも見ていないはずはな
   いのですが、あまりにも小机のホタルの印象が強かったのだと思います。
    街灯もない農業用水沿いにたくさんのホタルがまさに乱舞し、それは子供の私にとっても
   実に幻想的で見事な光景でした。この時に勝るホタルの舞を見たことはありません。
    その情景は、地面近くのホタルを捕ってはいけない、蝮の目をホタルと間違えることがあ
   るからという言葉とともに記憶に定着しています。
    田圃でも泥鰌がたくさんとれたことからすると、まだ農薬をほとんど使っていない時代だ
   ったのでしょう。

    上大岡でもホタルを見ました。おそらく駅周辺が田圃だった頃にもホタルがいたのだと思
   いますが、私が見たのはもっとずっと後の時代です。清水が湧き、田があった丘の中腹も、
   ついには住宅地の開発で赤土の広っぱになってしまっていたのですが、数匹が飛んでいるの
   を、まだホタルがいたという驚きと感傷とともにずっと眺めていたことを思い出します。

    もう横浜ではホタルは見られないかと思っていたのですが、まだ、少ないけれども生息地
   が残っているようです。
    昨年、緑地開発計画の対象地を公害・環境委員会の一員として見学に行きましたが、その
   隣地である瀬上沢では、かなりの数のホタルを見ることができました。
    今年も1日(金)に訪れましたが、まだ多少早かったのか、残念ながら昨年のほどの頭数
   は見られませんでした。
    そこは、市民の森の一角であり、カエルの声を聴き、森林浴をしながらホタルを鑑賞する
   には絶好のところです。いつまでもホタルが見られる自然が残ってほしいものです。












 

 



 

 

 

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