横浜 ・ ことの始め
横浜の開港にともない、横浜には、横浜が発祥という事物が数多くありますので、それらを
順次訪ねてみようと思います。まずは、当事務所の近辺から。
1 ホテル発祥の地
当事務所のある山下町70番地は、開港当初外国人居留地であり、横浜居留地70番地とさ
れていました。
開港翌年の万延元年(1860年)、オランダ船の元船長フフナーゲルが船を売って、乗組
員とともに、この地に「横浜ホテル」を開設しました。建物は、日本風とヨーロッパ風が相半
ばしたもので、あまり立派ではなかったようです。
ホテルには、バーとビリヤードが設けられていましたが、これらも公衆用のものとしては本
邦で最初のものということです。
英国公使オールコック、シーボルト、画家のワーグマンやハイネも宿泊したということです
が、慶応2年(1866年)の大火(豚屋火事)で焼失してしまいました。
「かをり」の店舗前に碑文があります。
碑文 1860年(万延元年)、開港直後の2月、横浜のホテルの元祖が
この地で(居留地70番)で生誕した。
この「ヨコハマ・ホテル」はオランダ人が造ったもので、内部に食
堂、ビリヤード室、酒場を設け、数年後にはフランス人シェフのレス
トランや洋酒、洋菓子の販売、ボーリング室も付設した。
宿泊者のハイネは、ここで美味な料理をとれると称賛し、他にシー
ボルト、ワーグマン、クラーク等の著名文化人も多数、宿泊し滞在し
た。これらの人たちを通じて最新の外国文化の受け入れ窓口として、
我が国の近代化に果たした役割はまことに大きい。
2 消防救急の発祥地
大桟橋通を挟んで当事務所のある建物の反対側、横浜都市発展記念館・ユーラシア文
化館の並び(情報文化センター駐車場の一角)に、「消防救急発祥之地」の碑がありま
す。
1863年末のクニフラー商会の家事を契機として居留外国人により居留地消防隊が
創設され、最初の消防「火の見」を設け、後に最初の蒸気消防ポンプ車を導入していま
す。
自治体消防体制発足後は横浜消防局本部が、次いで日本大通消防出張所が置かれてい
ました。
大正3(1914)年に消防車、昭和8(1933)年に救急車が日本で初めて配備
され、近代消防所縁の地とされています。防火貯水槽の遺構が保存されています。
旧居留地消防隊地下貯水槽遺構
建造年:明治26(1893)年(推定)
構 造:煉瓦造(イギリス積)
規 模:底面3.19m×3.17m 高さ4.50m 貯水量28㎥
この貯水池は、明治4(1871)年から明治32(1899)年ま
でここを本拠地とした居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)
の防火貯水槽として建造されたものです。この地に居留地時代から
100年以上も良好に保存され、昭和47(1972)年まで使用さ
れました。構造物としての特徴は、内部のヴォートル(アーチ)型
の天井と十字の補強用の間仕切りにより4室に分れていることで、
役割を終えた現在でも地下水の流入により常時貯水されています。
またここは、居留地消防隊が本拠地として使用した後にも、日本
初の消防車(大正3(1914)年)、救急車(昭和8(1933)年)が
配置されるなど、日本における欣治消防ゆかりの地ともいえます。
横浜市では、自治体消防体制発足時代の横浜市消防本部が置かれ、
平成6(1994)年まで日本大通消防出張所として100年以上の
消防の歴史があるこの地の貯水槽を保存し、展示しています。
3 電話交換の始め
大桟橋交差点から大桟橋方向に向かい左側の歩道沿いに「電話交換創始之地」の碑が
あります。
電 話 交 換 創 始 之 地
横 濱 電 話 交 換 局 跡
明治廿三年十二月十六日開始
紀元二千六百年
記 念
逓 信 省
「明治23年(1890年)12月16日、この場所にあった横浜電話交換局において、
横浜と東京間及び市内にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。」と説明があ
ります。
東京側は、千代田区丸の内の三菱UFJ信託銀行本店の南側壁面に「電話交換創始之
地」のプレートがあるということです。
4 近代のパンの発祥
大桟橋交差点から大桟橋方向に向かい左側の歩道の車道寄り、「電話交換創始之地」の
碑の斜め前に、「近代パン発祥の地」の石碑があります。
2016年11月に設置された、御影石でできた碑です。
千八五九年、欧米諸国との貿易がはじまるや、幕府は日本大通り五番地の横浜港郵便局
を中心とするこの地区に、外国人の日用食品街「お貸し長屋」を立てた。その一角で、内
海兵吉は千八六○年、フランス人にパンの製法を習って「パン屋」をはじめた。
当初は「焼き饅頭」のようなものができた。だが、これが現代日本人の日常生活につづ
くパン食文化の始めである。パンの元祖「富田屋」として知られた。
その後、イギリス人クラークのパン屋「ヨコハマベーカリー」が、登場する。ここで修
業し、受けつぎ発展したのが打木彦太郎の元町「ウチキパン」で、イギリス流の山形食パ
ンである。
現代日本の日常生活に根づくパン食文化「パン屋」が始まったこの地区に、横浜中区制
九○周年を記念し「近代のパン 発祥の地」を設置する。
二○一六年十一月
設置者 横浜市綜合パン協同組合
全国パン協同組合連合会
5 日本初の日本人による日本人のためのプロテスタント教会
大桟橋通りに面し、開港広場に隣接して横浜海岸教会があります。
明治5年(1872年)に、「日本基督公会」として日本初の日本人による日本人のため
のプロテスタント教会が設立され、3年後の大会堂の献堂を機に「日本基督横浜海岸教会」
と改称されました。
アメリカ人宣教師S.R.ブラウンとJ.H.バラらは英語私塾を開くとともにキリス
ト教伝道の準備をしましたが、その後、バラの依頼により、現在地(居留地167番)に在
住外国人のための礼拝所と日本人のための英語教場として小会堂が建設されました。
バラの教えを受けていた9人の日本人青年が受洗し、先に他所で受洗していた2名とと
もに、バラを仮牧師として、「日本基督公会」を設立したのです。
3年後の1875年には400名以上を収容する大会堂が献堂されましたが、1923年の関東
大震災により灰燼に帰しました。現在の会堂は1933年に献堂されたものです。
なお、2009年に日本のプロテスタント宣教150周年として記念行事が行われてい
ますが、これは、先駆的なできごとがあったにしても、日本開国後の1859年に多くの
宣教師が来日したことによって、教会設立につながる本格的なプロテスタント宣教がなさ
れたことによるということです。
6 外国郵便の始め
近代郵便制度はイギリスで1840年に始まりましたが、わが国にもイギリスの郵便制
度が導入され、前島 密により明治4年(1871年)に東京、大阪間で開始しました。
しかし、海外との郵便は、居留地のフランス、イギリス、アメリカの外国郵便局や各国
の領事館が取り纏めていました。日本人が郵便を受け取り、差し出す場合については、外
国郵便局の私書箱の一つを駅逓寮(交通通信を担当する官庁)が借り受け、仲介する形で
行っていました。
駅逓頭となった前島 密は、かかる状況の改善のため、米国公使推薦のブライアンを雇
用してアメリカに派遣し、明治6年(1873年)に日米郵便交換条約を締結するに至り、
明治8年(1875年)にアメリカ郵便局が廃止され、アメリカとの間に外国郵便事業が
開始されました。
その後、明治10年(1877年)に万国郵便連合に加盟し、明治12年(1879年)
にイギリス郵便局、翌年にフランス郵便局が廃止されました。
横浜港郵便局の壁面に「外国郵便創業の局」の銘板がかかっています。
外 国 郵 便 創 業 の 局
明治8年1月6日創業
100年記念 昭和50年
International MailService Began
at this office 5January 1875
First Centenary 1975
横浜郵便局 YOKOHAMA PORT POST OFFICE
7 電信の始め
日本大通に面する横浜地方検察庁の敷地内に「電信創業の地」の碑があります。
電 信 創 業 の 地
明治2年(1869年)12月25日この場所にあった
横浜電信局と東京電信局の間にわが国ではじめて電報の
取扱が行なわれました。
昭和38年12月25日
日 本 電 信 電 話 公 社
ペリー提督の2度目の来航時(1854年)に、大統領から将軍への贈り物として2
式の電信機を持参し、横浜で約1.6㎞の電線を敷いて公開実験を行ったということで
す。
わが国での最初の電信装置の実用化試験は、1858年に薩摩藩主島津斉彬が行った
とされています。
1869年には、招いたイギリス人の通信技師らにより横浜灯台役所と横浜裁判所を
結ぶ電信回線が開通しています。
同年12月に横浜と東京間、翌年に神戸と大阪間の回線が設置されましたが、1873
年には東京と長崎の間の回線が開通し、1871年に敷設されていたウラジオストク-
長崎間の海底ケーブルを用いて国際通信が可能となりました。
8 税関の始め
日本大通と本町通が交差するところ、神奈川県庁の一角に、「神奈川運上所跡」の碑が
あります。
神奈川運上所跡
開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、
今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属
していた。
慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。
明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)
横浜税関に改められた。
安政元年(1853年)に締結された日米和親条約を契機として、わが国は、諸外国
に対し、次々と開港しましたが、安政6年(1859年)に、神奈川、長崎、箱館(函
館)に「運上所」が設けられました。
「運上所」は、現在の税関の前身として、貨物輸出入の監督、税金徴収等の運上業務
のほか、外交事務も取り扱っていました。
神奈川開港の際に神奈川奉行所が設けられ、外国奉行の兼任として5名の奉行が任命
されましたが、運上所は、その一つの機関として置かれたものです。
9 日本大通―日本初の西洋式街路
日本大通は、イギリス人建築家R.Hブラントンの設計により、明治3年(1870年)に
完成した日本初の西洋式街路とされています。
慶応2年(1866年)の大火(豚屋火事)を契機として、諸外国は、居留地の拡張、拡充、
近代的な道路の整備や防火対策等を求め、横浜居留地改造及競馬場墓地等約書が定められ
て、大規模な区画整理が行われました。
その一つとして、横浜公園と象の鼻波止場を結ぶ街路として、中央道路部分60フィー
ト、左右の歩道及び植樹帯各30フィートの道路(道路幅約36m)が造られ、明治8年
(1875年)に日本大通と名付けられました。
日本大通は、道幅が広く、防火対策としての一面を持つほか、外国人居留地との境界線
でもありました。
10 横浜公園―日本人が利用できる最初の洋式公園
横浜公園は、日本人が利用できるものとして、明治9年(1876年)に開設された日
本最古の洋式公園とされています。
外国人専用の日本初の洋式公園としては、山手公園があります(1870年)。
横浜公園のある所には港崎遊郭があったのですが、豚屋火事(豚肉料理屋が火元)とい
われる大火によって焼失しました。諸外国との間の協議に基づく居留地復興計画のもと、
イギリス人のR.H.ブラントンの設計によって、港崎遊郭の跡地に横浜公園が造られま
した。
横浜公園には外国人居留者のためにクリケット場が設けられ、これが野球場に発展しま
した。横浜公園で、国際親善野球、メーデー、西洋花火大会が、日本で初めて行われてい
ます。
11 山手公園―日本最初の洋式公園(外国人専用)
これまで当事務所の近辺の「ことの始め」をご案内してきましたが、これからしばらく
は山手地区をご案内します。
山手公園は、明治3年(1870年)に横浜居留外国人によってつくられた日本最初の
洋式公園で、80年にわたって外国人専用の公園として使用されていました。
2004年に国の名勝に指定され、2009年には近代化産業遺産に認定されています。
生麦事件を契機として、居留外国人から安心して散策や遠乗りができる散策路や公園の
設置の要望が出され、また豚屋火事もあって、幕府との間に「横浜居留地改造及競馬場墓
地等約書」が交わされましたが、公園は具体化しませんでした。その後、居留外国人は、
改めて公園の設置を要求し、日本政府から約書の土地の代替地として貸与された土地に、
居留外国人自ら開設したのが山手公園です。
公園では、フラワーショウ、英国連隊のバンド演奏、幻灯会など様々な催しが行われた
ということです。
公園内にテニスコートが設けられ、日本におけるテニス発祥の地となり、ヒマラヤ杉も
イギリス人によって初めて植栽され、全国に広まっていきました。
12 日本のテニスの始め
山手公園内に、「日本庭球発祥之地」の碑があります。
明治9年(1876年)、イギリスから伝わったローンテニスが山手公園で行われました
(ジャパン・ウィクリー・メールの記事)。
その2年後の明治11年(1878年)には、山手公園の管理が居留外国人女性の組織
である横浜婦女弄鞠社(横浜レディーズ・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ)
に委ねられ、5面のコートがつくられて、本格的にテニスが行われるようになりました。
テニスコートの脇に、「横浜山手・テニス発祥記念館」が建っています。
日本庭球発祥之地
昭和五十三年十月 安部民雄書
山手公園は1870年(明治3年)横浜の居留地
外国人のレクリエーションの場としてつくられた。
1878年 レディース ローン テニス アンド ク
ロッケークラブ、現在の横浜インターナショナル
テニスクラブがこの地に5面のテニスコートを建
設した。
この地は日本のテニス発祥の地とされている。
昭和53年10月15日
横浜インターナショナル テニス クラブ
13 日本吹奏楽発祥の地
山手公園の近く、妙香寺の境内に、「日本吹奏楽発祥の地」の碑があります。
安政元年(1854年)、ペリー提督が横浜に上陸し、応接所に向かった際、アメリカ軍
楽隊の中を進み、これがわが国の洋楽の始まりとされています。
生麦事件による薩英戦争を契機に薩摩藩はイギリスとの交流を始めましたが、鹿児島に
来航したイギリス軍艦の軍楽隊の演奏に感銘を受けた薩摩藩主が、イギリスに洋式化への
協力を依頼し、その第1歩が軍楽隊であったということです。
青年藩士30余名が「薩摩藩洋楽伝習生」として横浜に派遣され、イギリス軍第10連
隊第1大隊所属軍楽隊の指導者ジョン・ウイリアム・フェントンから吹奏楽を学びました。
日本吹奏楽発祥の地
島津忠秀書
明治2年(1869年)10月、薩摩藩の青年藩士30余名が当妙香
寺に合宿し、英国陸軍第10連隊第1大隊所属軍楽隊の指導者ジョン
・ウイリアム・フェントン(John William Fenton)から吹奏楽を学
んだ。
これが日本人による吹奏楽団創立の序であり、吹奏楽活動の緒とな
った。
発祥から120年目にあたるこの年、日本吹奏楽が悠久に発展する
ことを記念し、ここに、吹奏楽界同志に諮りこれを建立、謹んで日蓮
宗本牧妙香寺に献呈するものである。
平成元年(1989年)9月8日建立
日本吹奏楽発祥の戸記念碑建立発起人会
代 表 春 日 學
14 国家君が代発祥の地
妙香寺の境内には「日本吹奏楽発祥の地」の碑のほかに、「國家君代發祥之地」の碑
もあります。また、門前には、「圀歌 君が代由緒地」の石碑も建っています。
「薩摩藩洋楽伝習生」を指導していたイギリス軍第10連隊第1大隊所属軍楽隊の長
ジョン・ウイリアム・フェントンが、国歌の必要性を説いたことから、当時の薩摩藩砲
兵隊長大山巌らが中心となって歌詞を選定し(古今和歌集が出典とされ、その変形であ
る大山の愛唱歌、薩摩琵琶の「蓬莱山」)、フェントンに作曲を依頼しました。
明治3年(1870年)9月8日、越中島で行われた陸軍観兵式(明治天皇臨席)に
おいて、初めて演奏されたということです。
しかし、フェントンの作曲は欧州風の讃美歌調で歌いにくかったため、明治9年には
廃止され、明治13年(1880年)に改訂されて、現在の「君が代」となっています。
15 日本のビール産業発祥の地
横浜は、日本のビール産業発祥の地でもあります。
明治2年(1869年)、アメリカ人ローゼンフェルトが、山手居留地48番に外国
人向けの日本初のビール醸造所「ジャパン・ヨコハマ・ブリュワリー」を開業し、5年
ほど操業しました。
同じころ、ノルウエー系アメリカ人のコープランドが、良質な硬水が湧く天沼の地に
醸造所を建て、明治3年(1870年)に「スプリング・ヴァレー・ブリュワリー」を
開業し、日本で初めて継続的にビールの醸造、販売を行ったとされています。
その後、スプリング・ヴァレー・ブリュワリーは他のブリュワリーと合併し、山手の
ビール工場で残ったのは、ビール醸造に適した良質な水に恵まれたスプリング・ヴァレ
ー・ブリュワリーだけでしたが、明治18年(1884年)に破綻してしまいました。
翌年、同地に、「ジャパン・ブリュワリー」が開設され、三菱の岩崎弥之助が資本参
加し、その後渋沢栄一らも株主となっています。
ジャパン・ブリュワリーは、ビールをキリンの商標で売り出し、明治40年(190
7年)に社名を麒麟麦酒株式会社としました。
北方小学校の横のキリン園公園に、「文化遺跡 日本最初麦酒工場」の碑があり、ま
た、「麒麟麦酒開源記念碑」があります。
18.06.26
16 近代日本最初のカトリック教会
みなとみらい線「元町・中華街」駅の2番出口そば、「横浜天主堂跡」交差点近くに、
「横浜天主堂跡」の碑があります。
文久2年(1862年)、横浜居留地80番に横浜天主堂が献堂され、近代日本最初
の教会として、カトリック再宣教の拠点となりました。
その後、天主堂付近の市街化のために山手町44番地に移転し、現在の山手カトリッ
ク教会となっています。
イエス像の台座には、当時の天主堂のレリーフが嵌め込まれ、碑文が刻まれています。
横 浜 天 主 堂 跡
昭和三十七年四月二十九日
横浜市長 半井清書
わが国が開国して間もない文久2年
(1862年)キリシタン迫害以来
絶えて久しかった天主堂がこの地に
創建され、キリストの聖心に献げら
れた。これは近代日本最初の教会で
あり、現在の山手カトリック教会の
前身をなすものである。このたび天
主堂創建百年にあたり、ここに聖心
のキリスト像を建立して、長くこの
遺跡を記念する次第である。
1962年4月29日 横浜天主堂遺跡顕彰委員会
17 日本バプテスト発祥の地
元町から山手本通りに至る代官坂の途中に「日本バプテスト發祥之地」の碑があり
ます。
日本バプテスト横浜教会は、日本最初のバプテスト教会であり、日本で2番目のプ
ロテスタント教会でもあります。
「バプテスト」とは、「浸礼をする者」を意味し、17世紀のイギリスに始まるキ
リスト教プロテスタント派の一つで、信仰の自由と独立を尊重し、民主的な運営に特
色を有する教派で、信者数はアメリカが最も多いということです。
「日本バプテスト發祥之地」
明治六年二月七日ネイサンブラウン博士
来朝此ノ地ニ布教本掾ヲ置ク
18 横浜バプテスト神学校発祥の地
元町公園内に、「横浜バプテスト神学校発祥の地」の碑があります。
ネーサン・ブラウン夫妻は、日本バプテスト横浜教会を設立しましたが、明治17
年(1884年)に「横浜バプテスト神学校」が創立され、アルバート・アーノルド
・ベネットが初代校長の任に就きました。
その後、福岡バプテスト神学校と合併し、「日本バプテスト神学校」として東京の
小石川に移転しました。時を経て、東京学院と合併し、同校の神学部となりましたが、
中学関東学院と合併して財団法人関東学院となり、横浜に神学部が移転しました。
さらに、神学部は青山学院と合併して、その幕を閉じました。
関東学院の源流
横浜バプテスト神学校発祥の地
1884年10月6日、ここ山手でA・A ・ベネットが横浜バプテス
ト神学校を設立した。関東学院キリスト教教育の源流はここに発する。
訓「人になれ 奉仕せよ」
2009年10月 創立125周年記念
学校法人 関東学院
19 西洋瓦製造の始め
同じく元町公園内に、「西洋瓦製造のはじめ」の碑があります。
フランス人アルフレッド・ジェラールは、明治元年(1868年)に船舶給水業に着
手し、山手地区の良質な水源を確保して貯水施設を造り、「船用最上飲用清水販売所」
を看板に、パイプを敷設して船舶や居留地に水を供給しました。このジェラールの給水
施設は水屋敷と呼ばれました。
ジェラールは、また、明治6年(1873年)ころ、蒸気機関を原動力とした西洋瓦
(フランス瓦)やレンガなどの最新式の工場を造り、ここに日本の西洋瓦の製造が始ま
りました。
ジェラールの工場で製造された瓦やレンガが、山下町の商館や居留外国人の家の建設
に利用されたのです。
18.07.02
20 塗装発祥の地
元町公園内には、「我国塗装発祥之地記念碑」もあります。
ペリー艦隊来航時、幕府は、江戸の渋塗職町田辰五郎に通商交渉を行う横浜応接所の
建物外部をペンキ塗装することを命じましたが、その技術ではうまくゆかず、資材を米
艦に求め、塗装法は外人職人に学んで、日本人最初のペンキ塗装を完成させました。
その功により、町田辰五郎は、塗装資材購入の特権を与えられたということです。
なお、アメリカ総領事ハリスは、安政3年(1856年)神奈川宿の本覚寺を領事館
とし、白ペンキで塗りたてましたが、これを縁に、「全国塗装業者合同慰霊碑」が本覚
時寺に建立されています。
21 機械製氷発祥の地
山手の谷戸坂を下ったところに「機械製氷発祥の地」の碑があります。
19世紀初めに、天然氷の採氷業が興って「ボストン氷」が世界を席巻し、開港後の
横浜にも輸入されていました。日本でも、中川嘉兵衛が「函館氷」を商品化しましたが、
やがて、機械製氷技術が発達とともに天然氷の採氷は衰退していきました。
日本における初の機械製氷会社は、英国人アルバート・ウォートルスが興したジャパ
ン・アイス・カンパニーですが、競売にかけられた同社をオランダ人のルドヴィカス・
ストネブリングらが落札し、「横浜アイス・ワークス」に社名を変えました。その後も
経営母体を変えながら100年以上にわたって経営されました。
関東大震災によって創業当時の工場は倒壊しましたが、翌年再建されて、神奈川日冷
株式会社山手工場として稼働していました。現在は廃止され、その跡地は結婚式場とな
っています。
22 女学校(ミッション・スクール)の始め
ミッション・スクールは、教育理念をキリスト教の教えとする私立学校であり、横浜
が発祥の地となっています。
明治2年(1869年)に来日したアメリカ人女性宣教師(オランダ改革派)メアリ
ー・E・キダーは、翌年、クララ・ヘボンからヘボン塾の生徒を引継ぎ、ヘボンの施療
所で女子専門の英語学校を始めました。
その後、神奈川県権令(ゴンレイ-県の長官)大江 卓の支援を受けて野毛山の県庁
舎の一部である日本家屋に移り、明治8年(1875年)には、アメリカ伝道局の資金
で山手町178番地に校舎を建設し、校名を、オランダ改革派海外伝道局総主事の名を
冠してアイザック・フェリス・セミナリー(後のフェリス女学院)としました。
23 クリーニング業発祥の地
「クリーニング業発祥の地」の碑がフランス山の谷戸坂登り口付近に建っています。
安政六年神奈川宿の人青木屋 この間フランス人ドンバル氏斯業の
忠七氏西洋洗濯業を横浜本町 技術指導及び普及発展に貢献
一丁目現在の五丁目にて始めついで された
岡澤直次郎氏横浜元町に清水屋 これら業祖の偉業を顕彰しここに
を開業慶応三年脇澤金次郎氏 クリーニング業発祥の記念碑を
これを継承し近代起業家の基礎を 建立する
成した
昭和48年10月吉日
神奈川県クリーニング環境衛生同業組合
全国クリーニング同業者有志一同
24 洋裁業の始め
みなとみらい線「元町・中華街駅」3番出口の近くに日本洋裁業発祥顕彰に碑があり
ます。
日本洋裁業発祥顕彰碑建立
碑 文
1863年(文久3年)英国人ミセス・ピアソンが横浜居留地97番にドレス
・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業の始まりである。その頃から在留西洋
婦人は自家裁縫のため日本人足袋職人・和服仕立職人を入仕事として雇い、
これにより婦人洋服仕立職人が育った。
以来130有余年、先人達の偉業を称え、その精霊をモニュメントに表徴し
て永く後世に伝えるべく、洋裁業発祥の地たる横浜に、日本洋裁業発祥顕彰碑
を建立する。
1995年(平成7年)11月24日
25 西洋理髪発祥の地
明治4年(1871年)の断髪令より早く外国人相手の理髪業が開業されましたが、
それを顕彰する「ZANGIRI」と名付けられた御影石の像が山下公園内にありま
す。
西洋理髪発祥之地
ザンギリ頭をたたいてみれば
文明開化の音がする
安政の開港とともに、生活様式の洋風化が進むなか、
政府の「断髪令」に先がけ、明治2年(1869年)
横浜に我が国初の「西洋理髪店」が開業され、欧米
風「ザンギリ頭」は文明開化の一翼を担うことにな
った。
なお、外国人による日本初の西洋理髪店は、山下居留地70番の横浜ホテル内で開
業したということです。
26 西洋式劇場の始め
明治3年(1870年)、本町通りの横浜居留地68番地に、我が国初の西洋式劇
場「ゲーテ座」(明治41年焼失)が建てられました。
その後、パブリックホールとして使用されていましたが、より広いパブリックホー
ルをとの人々の声により、フランス人ン建築家ポール・サルダの設計で山手に新たな
パブリックホールが建設され(明治18年(1885)、明治41年から、ゲーテ座
と呼ばれるようになりました。
北村透谷や小山内薫らが足しげく通い、日本の近代演劇や文化に大きな影響を与え
たといわれています。
関東大震災で倒壊しましたが、昭和55年(1980年)に岩崎学園によって復元
されて、博物館となっています。
ゲーテ座跡
明治18年(1885)4月、この地に居留外国人のための
劇場「パブリック・ホール」が開場した。アマチュア劇団の
芝居、音楽会等様々な催し物が行われた。設計はフランス人
ポール・ピエール・サルダで、建坪270坪、地上2階 地下
1階の赤レンガ造りであった。
明治41年(1908)11月、「ゲーテ座」と改称した。
大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまで外国人
の社交場でもあった。この前身は、オランダ人ヘフトにより
明治3年(1870)現山下町68番地に開設された「ゲー
テ座」と名づけられた劇場である。
27 新聞発祥の地
中華街の関帝廟の近くに「日本国新聞発祥之地」の碑があります。
兵庫県生まれ、13歳の「彦太郎」は、江戸見物の帰路暴風雨により遭難し、アメ
リカの商船に助けられてアメリカに渡りました。かの地で教育を受け、カトリックの
洗礼も受けて、ジョセフ彦と名乗り、アメリカ国籍を得ました。
安政6年(1859年)、アメリカ領事館の通訳としてハリスとともに着任し、一
旦帰国後、元治元年(1864年)に再来日して、わが国初の新聞「海外新聞」を発
刊しました。
日本における新聞誕の地
ここ、横浜の元居留地一四一番は、一八六四 さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬等
(元治元)年六月二十八日、ジョセフ彦が、 多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主
「海外新聞」を発刊した居館の跡である。 義の先駆者としておよそ新聞を読むほどの
彦はリンカーン大統領と握手した唯一の 人々の心の奥に残る文化の恩人であった。
日本人であった。リンカーンの民主政治が勃
興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを
体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初 1994(平成六)年六月二十八日
の新聞を創刊し、「童子にも読める新聞精神」 「海外新聞」発行一三〇年記念日に
を提唱した。読みやすく,判かりやすい新聞を ジョセフ彦記念会
創世記の日本の新聞界に植えつけた新聞の
父・彦の功は大きい。
28 日刊新聞の始め
ジョセフ彦がわが国初の新聞「海外新聞」を発刊したことは27に記しましたが、
わが国初の邦字日刊新聞は、現中区本町6丁目付近において創刊された「横浜毎日新
聞」ということです。
横浜市第二合同庁舎の敷地内にあった「日刊新聞発祥の地」の碑は、一帯の再開発
により一時倉庫に保管されていましたが、2009年に、本来の創刊の地近くである
横浜アイランドタワーの一角に再建されています。
日刊新聞誕の地
明治三年十二月八日、我が国日刊 こうした偉業を記念すると同時に
新聞が鼻祖「横浜毎日新聞」はこの地 その計画者 時の神奈川県令井関盛良
で誕生した。この新聞はまた冊子型木 社長島田豊寛 編集担当者子安峻 印
版刷りの旧型から 活字一枚刷りの現 刷担当者陽其二 資金協力者原喜三郎
代型へと踏切った我が国最初の新聞で 茂木惣兵衛 吉田幸兵衛、増田嘉兵衛
あった。これが端緒となって 日本が 髙瀨英祐等諸氏の功績を後世に伝える
大新聞国へと発展したことを思うと ためにこの記念碑を建立する。
文明開化の窓口としての横浜の意義は
きわめて大きい。 昭和三十七年十月十日
29 銀行業務発祥の地
産業貿易センタービル前の広場の片隅に「銀行業務発祥の地」の碑があります。
これは海外資本による銀行についてであり、日本資本による銀行としては、明治6
年に設立された「第一国立銀行」が日本で最初の銀行とされています。
なお、香港上海銀行よりも早く横浜に支店を開設した銀行がいくつかあったもの
の、現在残っていないということのようです。
銀行業務発祥の地
英国系金融機関HSBCグループの香港上海銀行は、創業2年目の1866年(慶応
2年)居留地62番に日本で初の支店となる横浜支店を開設しました。
その後、居留地2番(現山下町2番地)に移転した横浜支店は貿易金融業務の提供に
留まらず、日本政府に対して銀行業や通貨制度に関する助言も行いました。
香港上海銀行は現在日本で営業を行っている最も古い銀行です。
30 我が国最初の全鉄筋コンクリート造りのオフィスビル
日本大通にある「旧三井物産横浜ビル」は、我が国最初の全鉄筋コンクリート造り
のオフィスビルです。
日本大通から見て、向かって左側が明治44年(1911年)に竣工し、玄関から
右側が昭和2年(1927年)に増築されています。
設計者は、横浜正金銀行、生糸検査所なども設計し、日本におけるコンクリート建
築の先駆者である遠藤於菟(ただし、当初の竣工部分は酒井祐之介が協力)です。
私は、2階の左端にあった弁護士事務所で4か月間の弁護修習をしたのですが、その
当時は、床や建具等は木造であり、歴史を感じさせるものでした。
なお、隣接して旧三井物産横浜支店倉庫(明治43年(1910)竣工)があり、鉄
筋コンクリート造の成立過程を示す建物として、現存する横浜最古の倉庫として、また
戦後のララ物資が保管されていた歴史的な意味を持つ倉庫として、とても貴重な存在で
したが、保存運動が展開されたにもかかわらず、駐車場になってしまいました。
31 我が国最初の和英辞典
人形の家近くの横浜第二合同庁舎の敷地内に「ヘボン博士邸跡」の碑があります。
ヘボン博士は一八五九年 ヘボン式ローマ字による
十月十八日北米合衆国より 和英語林修正の編纂
渡来横濱居留地最初の 新旧譯聖書の翻譯など
居住者の一人にしてこの地に 日本文化の開拓に力盡せり
施療傳道所を設け なほ指路教會及び
歐米医術を導入する傍ら 明治学院の創始者なり
案内板には
開港とともに来日した宣教師の一人で神奈川成仏寺に
3年仮寓、文久2年(1862)冬横浜居留地39番
に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力を尽くし
た。聖書の翻訳、和英辞書の編纂、医術の普及などが
それである。
昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に建てら
れた。 とあります。
32 我が国初のトラス鉄橋
伊勢佐木町と馬車道を結ぶ吉田橋は、明治初期には「鉄の橋(かねのはし)」と呼
ばれましたが、我が国初のトラス鉄橋でした。鉄の橋としては、我が国で2番目の橋
です。
慶応4年(1868年)に架けられた長崎の「くろがね橋」が日本で最初の鉄橋と
されています。
なお、トラスとは、細長い部材で三角形を形作る構造であり、トラス橋は、桁部分
にトラス構造を採用した橋ということです。
[鉄の橋]
明治2年(1869年)、英国人土木技師R・H・ブラントン
(RICHARD HENRY BRUNTON 1841~1901)により
架け替えられた吉田橋は、橋長24m、幅員6mの日本最初の
トラス鉄橋であり、「鉄の橋」として市民に親しまれるととも
に文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集
めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元した
ものです。
33 乗合馬車の始め
横浜開港後、開港場を海外から持ち込まれた馬車が走るようになり、慶応3年(
1867年)に開通した吉田橋から海岸に通じる道は、馬車が通る道ということか
ら「馬車道」と呼ばれるようになりました。
同年には、サザランド商会(後のコブ商会)によって横浜と築地間を結ぶ馬車会
社が設立されました。
日本人によるものとしては、明治2年(1869年)に写真家の下岡蓮杖ら日本
人商人の共同出資による「成駒屋」が横浜―東京間で乗合馬車の営業を始めていま
す。下岡蓮杖は、後藤象二郎の資金協力を得たということです。
横浜から始まった乗合馬車は各地に普及していきましたが、明治5年(1872
年)に鉄道が開通すると、横浜―東京間の乗合馬車はさびれてしまいました。
なお、乗合馬車は、時刻表に従って一定の路線を運行し、不特定多数の乗客を乗
せる馬車であって、路線バスの起源とされます。また、辻馬車はタクシーの起源と
されています。
34 近代街路樹発祥の地
吉田橋と国道16号線の間にある馬車道広場に、「近代街路樹発祥之地」の碑が
あります。
開港当時に植えられた柳や松の並木は関東大震災で焼失し、現在は、昭和57年
ころから植えられたアキニレの並木になっています。
馬 車 道 の 街 路 樹
街路樹は、近代に入ってから、人口過密な都市の景観的魅力
を向上させる為に発達したものであり、参道並木、街道並木
など、いわゆる地方並木とは区別されている。日本における
街路樹は、明治以後、欧米都市の影響を受け、樹種の選択、
植栽手入法の改良などによって、著しく進歩、普及した。
一八六七年(慶応三年)、開港場横浜の馬車道では、各々の
商店が競って柳と松を植栽した。是が日本での近代的な街路
樹の先駆となった。一八七二年(明治五年)になって、馬車
道に日本最初のガス灯が点火されると、その街路樹は、さら
に美しく映え、夜の涼を楽しむ人々で賑わった。
35 アイスクリームの始め
明治2年(1869年)馬車道通りに「氷水屋」を出した町田房造が「あいすく
りん」と名付けて売り出したのが、アイスクリームの始めとされています。
ただし、これは、日本人が初めて製造販売したということであり、アメリカ人が
慶応元年(1865年)に横浜居留地112番にアイスクリームサロンを開いたの
がアイスクリーム販売の始めといわれています。
なお、町田房造は、アイスクリームを初めて口にした万延元年の遣米使節の一人
であり、再渡米してその帰国後に「あいすくりん」を売り出したものです。
太 陽 の 母 子
制作者 本郷 新
横浜沿革史に『明治二年六月馬車道通常
盤町五丁目ニ於テ町田房造ナルモノ氷水
店ヲ開業ス・・』と誌されています 日
本のアイスクリームの誕生です私たちは
これを記念し このゆかりの地に モニ
ュメントを建てて寄贈いたします
昭和五十一年十一月三日
社団 日本アイスクリーム協会
法人 同神奈川支部
36 日本で最初のガス灯
明治5年(1872年)9月に、大江橋から馬車道、本町通りにかけて、日本で
最初のガス灯がともされました。馬車道の関内ホール前に「日本で最初のガス灯の
碑」があり、その両側に当時のものを復元したガス灯が2本立っています。
日本で最初のガス灯
安政六年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化
の玄関口となりました。馬車道を基点にして全国に拡がったもの
も数多くあります。
ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の「日本
ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これ
が日本における最初のガス灯となりました。柱部は英国グラスゴ
ー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われて
います。
このたび、横浜市市民文化会館〔関内ホール〕新築完成を祝っ
て、当時の型をモデルとしたガス灯を復元設置しました。
壁面レリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもの
で、明治末期の馬車道です。
昭和61年9月27日
馬車道商店街協同組合
36-番外 イギリスからやってきたガス灯たち1
馬車道のガス灯のなかには、「イギリスからやってきたガス灯たち」が4灯あり
ます。どこにあるか、そぞろ歩きしながら探してみるのも一興です。
1 トラファルガー広場のガス灯
1865年、ナポレオン率いるフランス・スペイン艦隊をスペインのトラフ
ァルガー沖で撃沈してイギリスを救った英雄、イギリス海軍ネルソン提督の活
躍と栄誉を称えてつくられたのが、トラファルガー広場。高さ55メートルも
の円柱(コラム)から街を見守るネルソン提督の像の台座には、彼の活躍した
4つの海戦場所(トラファルガー・ナイル川・セントビンセント岬・コペンハ
ーゲン沖)が描かれています。
このガス灯は、このロンドンの中心的存在であるトラファルガー広場のガス
灯と同じものです。
1872年(明治5年)日本初のガス灯が馬車道にともされたことを記念し
て、東京ガスの協力により設置しました。
平成15年2月28日 馬車道商店街協同組合
36-番外 イギリスからやってきたガス灯たち2
馬車道のガス灯のなかには、「イギリスからやってきたガス灯たち」が4灯あり
ます。どこにあるか、そぞろ歩きしながら探してみるのも一興です。
2 英国国会議事堂のガス灯
テムズ川のほとりにそびえる高さ96mの時計塔ビッグ・ベンがシンボルと
して立つことで有名な英国国会議事堂は、正式名称をウエストミンスター宮殿
といい、1065年エドワード国王によって建設されました。当時の建物は1
834年の火災で焼失しましたが、1852年に国会議事堂として再建、ビッ
グ・ベンもその時に建てられています。
このガス灯は、この建物の北西部に立つガス灯と同じものです。
1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道にともされたことを記念
して、東京ガスの協力により設置しました。
平成15年2月28日 馬車道商店街協同組合
36-番外 イギリスからやってきたガス灯たち3
馬車道のガス灯のなかには、「イギリスからやってきたガス灯たち」が4灯あり
ます。どこにあるか、そぞろ歩きしながら探してみるのも一興です。
3 シェフィールドパークのガス灯
ロンドンから南の町、ブライトンへ向かって行く途中にあるサセックス洲の
シェフィールドパークは、森や林で囲まれた緑豊かな田園地帯にあり、多くの
イギリス人から憩いの場所として愛されています。
古い昔からのランタンと、円柱からなるこのガス灯は、このシェフィールド
パーク内に立っているものと同じガス灯で、1872年(明治5年)日本最初
のガス灯が馬車道にともされたことを記念して、東京ガスの協力により設置し
ました。
平成15年2月28日 馬車道商店街協同組合
36-番外 イギリスからやってきたガス灯たち4
馬車道のガス灯のなかには、「イギリスからやってきたガス灯たち」が4灯あり
ます。どこにあるか、そぞろ歩きしながら探してみるのも一興です。
4 ビクトリア・タワーのガス灯
ビッグ・ベンとともに、英国国会議事堂のシンボルとして有名なビクトリア
・タワー。1843年の火災で焼失したウエストミンスター宮殿を国会議事堂
として再建させる際、建築家のオーガスタス・ピュージンはゴシック建築のロ
マンチックな風貌に、非対称のデザインのもつ力強さを生かそうと、南端の塔、
このビクトリア・タワーを大きく設計したのだといわれています。
このガス灯は、ビクトリア・タワー周辺に立つガス灯と同じものです。
1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道にともされたことを記念
して、東京ガスの協力により設置しました。
平成15年2月28日 馬車道商店街協同組合
36-番外 イギリスからやってきたガス灯たち―その設置場所
『馬車道のガス灯のなかには、「イギリスからやってきたガス灯たち」が4灯あ
ります。どこにあるか、そぞろ歩きしながら探してみるのも一興です。』としま
したが、その設置場所を記しておきます。
1 トラファルガー広場のガス灯
吉田橋と国道16号線の間にある「馬車道広場」に立っています。
他の3つが球形であるのに対し、このガス灯は、上方が広く下方が狭くなっ
ている円筒状のガス灯です。支柱も普通のガス灯と異なって趣のある立派な
ものとなっています。
2 英国国会議事堂のガス灯
球形のガス灯です。「日本で最初のガス灯」の碑のすぐ近く、「関内ホール」
前の歩道上、車道寄りに立っています。
3 シェフィールドパークのガス灯
県立歴史博物館のそばに立っています。こちらも球形なので、普通のガス灯
とは明確に区別できます。
4 ビクトリア・タワーのガス灯
この球形のガス灯は、本町4丁目の交差点寄り、シェフィールドパークのガ
ス灯とは馬車道を挟んで反対側の歩道に立っています。
37-日本最初の写真館
日本最初の写真館は、中国でも写真館を経営していたという米国人雑貨商のオリ
ン・フリーマンが横浜で開いた写真館です。
日本人による最初の写真館は、フリーマンから写真術を学び、機材一式を譲り受
けた鵜飼玉川が、文久元年(1861年)ころに江戸両国薬研堀で開業した写真館
ということです。
馬車道に、「日本写真の開祖 写真師下岡蓮杖顕彰碑」があり、日本最初の写真
館を開いたとも紹介されてきましたが、最近、フリーマンや鵜飼玉川の事跡が明ら
かになってきました。しかし、日本の写真の草創期において、下岡蓮杖と長崎の上
野彦馬の足跡が大きなものであったことは間違いありません。
嘉永元年(1848)オランダから長崎へダゲレオタイプ一式が渡来した
弘化二年(1845)狩野派の青年絵師が、銀板写真に遭遇し、そして絵筆
を折り捨て写真術習得の道へ歩み出した。この青年こそ、日本に写真師とい
う職業を確立した日本写真の開祖下岡蓮杖その人である。蓮杖は、来日の外
国人から湿版写真の機材を入手し、筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て、
文久二年(1862)野毛に初めての写真場を開業し、その後、弁天通りに
進出し、慶応三年(1867)太田町五丁目角地に「富士山」と「全楽堂」
「相影楼」の看板を掲げた写真館を開き大繁盛をした。数多くの門下生を育
て、我が国に於ける写真技術の先駆者として近代日本の発展に貢献した。そ
の業績に敬意を表し、文明開化の地、馬車道通りに写真師発祥一二五周年、
日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和六十二年(1987)建立をみ
たのである。
38-西洋歯科医学発祥の地
「我国西洋歯科医学発祥の地」、「西洋歯科医学勉学の地」の碑は、移転して、
現在は神奈川県歯科医師会の建物前に並んでいます。
我国西洋歯科医学発祥の地
ここは、万延元年(一八六〇年)歯科医師として最初に来日した
米国人ウイリアム・クラーク・イーストレーキ博士が、来浜三度目
の明治十四年歯科診療所を開設したゆかりの地である
博士は、明治元年二度目の来浜に際し歯科診療所(所在地不明)
を開設し、献身的な診療活動のかたわら日本人歯科医師の育成に努
力を傾注し、日本近代歯科医学の世界的発展の端緒を開く役割を担
われた。
いま、イーストレーキ博士の来浜百二十五周年ならびに、神奈川
県歯科医師会創立六十周年を迎えるにあたり、博士の多大な業績を
讃えその意義を後世に伝えるため西洋歯科医学発祥のこの地に顕彰
の碑を建立するものである。
昭和六十年十一月吉日 社団法人神奈川県歯科医師会
39-日本ガス事業発祥の地
桜木町駅近くの本町小学校正門前に、「日本ガス事業発祥の地」の碑と一基のガ
ス灯があります。ガス会社を設立した高島嘉右衛門は、高島易断でも有名です。
日本ガス事業発祥の地
明治三年、高島嘉右衛門によって中区花咲町の
この地(当時の伊勢山下石炭蔵跡)にガス会社が
設立された。高島はフランス人技師アンリ・ブレ
グランを招いて、明治五年九月二十九日(太陽暦
十月三十一日)、神奈川県庁付近および大江橋か
ら馬車道・本町通りまでの間にガス街灯十数基を
点灯した。
これがわが国ガス事業の発祥である。
明治二十五年四月、横浜市瓦斯局となり、昭和
十九年十一月、東京ガス株式会社となった。
昭和五十九年十一月一日
寄贈 東京ガス株式会社
40-近代水道発祥の地
野毛山公園の「野毛山配水池」の広場に、近代水道の父とされる英国人技師ヘン
リー・スペンサー・パーマーの像と碑が建っています。
相模川の三井取水口から40㎞以上離れた野毛山貯水池まで導水し、そこから横
浜市内に配水されたのです。
近代水道発祥の地
明治20年(1887年)10月、日本最初の近代水道は横浜に誕生した。
当時の横浜は、埋立地が多く良い水が得られないため、長い間飲み水や伝染
病に苦しみ、また大火事にも悩まされていた。
いつでもどこでも安全でよい水が欲しいという人々の夢は、この近代水道の
完成によって実現された。
横浜の水道は、英国人H..S.パーマーの設計・監督によるものであるが、沖守
国県知事をはじめ三橋僕方(後に市長となる)、三田善太郎など多くの日本人
の努力も忘れることはできない。
パーマーは、横浜のほかにも大阪・神戸・函館・東京などの水道計画に貢献
した。
さらに、横浜築港工事や横浜ドックの設計など港湾整備の面でも業績を残し
たほか、天文台の建設やロンドンタイムズへの寄稿など広い分野で活躍し、明
治26年(1883年)54才で没し東京青山墓地に眠る。
横浜水道創設100年周年を迎えるにあたり、パーマー像をこの地に建て、
先人の業績を讃え、明日への発展を願いたいと思う。
昭和62年4月 横浜市長 西郷道一
41-石鹸工場発祥の地
石鹸は、1543年から1596年頃にかけてポルトガルやスペインから伝わっ
たとされますが、文政7年(1824)に蘭学者の宇田川棒斎が医薬用石鹸の製造
に初めて成功し、明治6年(1873)に堤礒右衛門が洗濯石鹸の製造に成功して、
横浜に日本初の石鹸工場を建てました。
日本最初の
石鹸工場発祥の地
-堤磯右衛門石鹸製造所跡-
堤磯右衛門は、磯子村の村役人を務める旧家の出身で、明治初期の横浜の実
業家でした。
磯右衛門は、明治六年(一八七三)三月、横浜三吉町四丁目(現・南区万世
町二丁目二十五番地付近)で日本最初の石鹸製造所を創業、同年七月洗濯石鹸、
翌年には化粧石鹸の製造に成功しました。
明治十年(一八七七)第一回内国勧業博覧会で、磯右衛門の石鹸は花紋賞を
受賞しました。その後、香港・上海へも輸出され、明治十年代の前半に石鹸製
造事業は最盛期を迎えました。
明治二十三年(一八九〇)「時事新報」主催の優良国産石鹸の大衆投票で第
一位になりましたが、全国的な不況のなかで経営規模を縮小せざるをえません
でした。翌年創業者の磯右衛門が死去、その二年後の明治二十六年(一八九三)
ついに廃業にいたりました。
平成六年三月
南区制五十周年記念事業実行委員会
横 浜 市 南 区 役 所
42 日本で最初の洋式競馬場
横浜開港(安政6年(1859))の1年後には、簡単なコースで洋式競馬が行
われたとされ、その後も場所を変えて競馬が開催されていましたが、慶応2年(1
866)、根岸の丘に日本最初の洋式競馬場が竣工しました。
根岸競馬場跡
日本で初めて洋式競馬が開催されたのは、居留外国人により造成中の旧横浜
新田(現中区山下町付近)において、文久2年(1862)5月といわれてい
ます。
元治元年(1864)の横浜居留地覚書第1条に基づき、吉田新田の一部に
設置する予定でしたが、慶応2年(1866)日本最初の近代競馬が外国人遊
歩道に沿う根岸の丘の上に設置されました。形は楕円形で周囲は827間(1
.5㎞)、幅は10間より15間、14.920坪(49.236㎡)。グラ
ンドスタンドは35間四方、設計はW.A.ドーソン。翌3年第1回の競馬会
が開催されました。
・・・・・
・・・・・
43 洋楽器製造の始め
三味線職人であった西川寅吉は、25歳ころに横浜に移住し、イギリス人のオル
ガン調律師らについて調律技術を学びました。独立して元町に「西川風琴製造所」
を設立してオルガン製造に専念し、明治17年(1884年)にリードオルガンの
試作に成功しました。その後、日ノ出町に工場を設けましたが、これが事業として
の国産オルガン製造の始まりとされています。
明治40年(1907年)には、馬車道に西川楽器店を開いています。
西川は、東京、千葉、長野、福岡ほかにも販売ルートを広げ、明治末期頃には、
総計で4万台ものオルガンを製造販売したということです。
西川の死後、山葉(後の日本楽器製造)に吸収されましたが、その技術力は高く、
第二次大戦の直前まで「西川オルガン」のブランドが残されていました。
44 日本で最初の臨海都市公園
山下公園は、横浜港に面した長さ800mに及ぶ臨海公園であり、横浜市民の憩
いの場であるとともに多くの観光客が訪れる横浜屈指の公園です。
山下公園は、関東大震災の復興事業として生まれた復興公園の一つで、震災で生
じた瓦礫で埋め立てて造成され、昭和5年(1930年)に開園しました。
園内には、インド水塔、水の守護神像、「赤い靴はいてた女の子」像、「かもめ
の水兵さん」歌碑、日米ガールスカウト友好の像、西洋理髪発祥の地碑などが設置
されています。
山下公園は、横浜公園、日本大通りとともに国の登録記念物となっていますが、
日本の都市公園100選、日本の歴史公園100選にも選定されています。
また、公園内に係留されている貨客船「氷川丸」は、横浜市の有形文化財の指定
を受けています。
45 日本人による牛乳販売の始め
横浜開港後、居留地の外国人は牛乳に不自由しており、オランダ人のスネル兄弟
(ペローとする文献あり)が居留地内に搾乳場をつくり、外国人用に牛乳を販売し
ました。
千葉県出身の前田留吉は、職を求めて横浜に出てきて、居留地の外国人の体格が
立派であるのに驚き、牛乳を飲んでいるからであろうと考え、牛乳飲用が広がるこ
とを先見し、スネル兄弟に雇われて搾乳技術等を学びました。
慶応2年(1866年)に乳牛を譲り受けて独立し、太田町に牧場と日本で初め
ての牛乳搾乳場を開設し、日本人による牛乳販売を始めました。
なお、前田は、その後上京して明治天皇に搾乳をご覧いただき、それを機に明治
天皇は牛乳を飲まれるようになったということです。
46 牛鍋の始め
安政6年(1859年)の横浜開港後、居留地の外国人から食肉文化が伝わり、
また、居留外国人の増加とともに牛肉の需要が高まりました。当初は外国から食用
牛を輸入していましたが、神戸の家畜商から横浜に搬送されるようになり、元治元
年(1864年)には、幕府が海岸通りに屠牛場の開設を許しました。
そうした横浜において、文久2年(1862年)に、入船町の居酒屋「伊勢熊」
が店を二つに区切って片方を牛鍋屋としたのが、牛鍋の始まりとされています。
庶民の間で大流行した牛鍋は、関東大震災により被害を受けた牛鍋屋とともに姿
を消していき、次第に関西の「すき焼き」が広まり、「割りした」を使う「関東風
すき焼き」となったということです。
横浜の「牛鍋」、「すき焼き」の老舗である、「太田なわのれん」は明治元年(
1868年)、「じゃのめや」は明治26年(1893年)、「荒井屋」は明治28
年(1895年)に、それぞれ創業しています。
47 西洋野菜栽培の始め
長崎の出島では、オランダ人らが野菜を育てて自給自足をしていたということで
すが、本格的な西洋野菜の栽培は、開港後であり、横浜から全国に広まっていった
ようです。
万延元年(1860年)に、神奈川奉行所が「アメリカ麦」を鶴見、生麦で試作
させました。文久3年(1863年)には、奉行所の命で西洋人指導のもと末吉町
の畑で居留地向けの西洋野菜栽培が始められました。
イギリスの初代駐日総領事のラザフォード・オールコックは、チシャ、パセリ、
キャベツ、キクイモなどの種をイギリスから導入し、それによりエドワード・ロー
レイロがこれら野菜の大きな菜園をつくりあげています(オールコック著「大君の
都」)。
トマトは観賞用でしたが、日本初の食用のトマトは、文久3年(1863年)の
奉行所の命による栽培に始まります。
またトマトケチャップは、西洋野菜栽培農家の清水與助がトマトの加工事業を始
め、明治29年(1896年)に生産したのが初めてとされています。
横浜市は、開港時に生産が始まった、トマト、レタス、キャベツ、カリフラワー、
ニンジン、いちご、リーキ、エンダイブ、芽キャベツ、パセリ、アスパラガス、サ
ヤエンドウ、ラディッシュ、セロリの14種類の西洋野菜を「横濱開港菜」と認定
しています。
48 近代下水道の始め
日本の下水道は、開渠式か汲み取り式であり、横浜開港後の居留地でも道路脇の
掘割を下水道としていました。
しかし、居留地の繁栄につれて衛生管理が大きな問題となり、幕府と各国領事と
の間に「横浜居留地覚書」が交わされ、その要請事項の一つとして居留地の下水道
整備が計画されました。
明治政府のお雇い外国人の英国人技師ブラントンが技術指導し、陶管を使用した
暗渠式下水道の工事が明治2年(1869年)に始まり、明治4年(1871年)
に完成しました。それは、居留地全域の道路の両側に側溝と雨水桝を設置し、道路
中央の地下に埋設した陶管に流すようにし、7か所から海に放流するものでした。
旧来の方式と違う「暗渠式下水道方式」は、まさに画期的であり、これが近代下
水道の始まりとされています。
なお、居留地の人口増によって排水能力を超えたため、明治14年(1881年)
から6年かけて改修工事が行われ、その際使用された「卵型管」は、水量が少ない
ときでも流速を確保するように設計されたもので、現在も、中華街の南門シルクロ
ード周辺の一部地域で使用されているということです。
49 公衆トイレの始め
横浜開港後、日本人の路上での用足しに対する居留外国人からの苦情対策として、
明治4年(1871年)に、県は「放尿取締の布告」を出し、町会所が83か所に
板囲いの簡素な「路傍便所」を設けたのが公衆トイレの始まりとされています。
其の後、浅野総一郎が改造に取り組み、明治12年(1879年)に63か所を
完成させましたが、呼び名が、公同便所、共同便所、公衆便所と変わっていきまし
た。
50 西洋目薬の始め
岡山出身の岸田吟香は、後に新聞記者となり、また実業家としても活躍しました
が、30歳ころに眼病を患い、知人の紹介で高名な眼科医でもあったヘボン博士の
治療を受けました。それがきっかけとなって、「和英語林集成」の編纂を手伝うこ
とになりました。
ヘボン博士から目薬の作り方を伝授された吟香は、蒸留水の確保に苦労しながら
も、慶応3年(1867年)、目薬「精錡水」を横浜で売り出しました。
「精錡水」は、ガラス容器に入った液体目薬で、現在の点眼薬の原型ともなる商
品であり、日本初の西洋目薬です。
岸田吟香は、画家岸田劉生の父であり、タマゴかけご飯を日本で初めて食べ、広
めた人としても有名ということです。
51 鉄道の始め
明治5年(1872年)5月7日に、イギリス人鉄道技師エドモンド・モレルの
指導により横浜(現桜木町)―品川間に試験営業の鉄道が走りましたが、その4か
月後に新橋まで延長されて本営業となり、これが日本での鉄道の始まりとされてい
ます。
鉄 道 創 業 の 地
我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、こ
の場所にあった横浜ステイションと品川ステイションの間で開
通し、その営業を開始しました。
わたくしどもは、当時の人の気概と努力とをたたえ、このこ
とを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、さらに
あすの飛躍をもたらすことを希望するものであります。
昭和42年10月14日
社団法人 横浜市観光協会
鉄道発祥記念日建設特別委員会
鉄道創業の地 記念碑
日本で初の鉄道を作るために 明治3年(1870年)に鉄
道資材を英国から購入し 横浜港で陸揚げされ建設が始まった。
その2年後の明治5年(1872年)5月7日、この地に初
代横浜駅が建設され、横浜、品川間に最初の鉄道が開業した。
この鉄道創業の地を象徴して昭和42年(1967年)10
月13日に記念碑が竣工した。
その後、昭和63年(1988年)12月に現在の位置に
移設され、王書記念碑のあった位置に原標を置いた。
平成26年7月
公益財団法人横浜観光コンベンション・ビューロー
52 我が国初の国際裁判
明治5年(1872年)、国交のないペルーの貨物船「マリア・ルス号」がマ
カオからペルーに向かう途中、時化による故障を修理するために横浜に入港しま
した。
数日後、停泊中の英国軍艦に1人の清国人が泳ぎ着き、過酷な状況とマリア・
ルス号は奴隷船であると訴えて助けを求めました。連絡を受けた神奈川県は、船
長の説明を求めたものの、清国人船員を船に返してしまいましたが、拷問を受け
て泣き叫ぶ声が英国船まで聞こえ、英国代理公使ワトソンが、外務卿副島種臣に
調査を求めました。
閣議で、司法卿江藤新平と神奈川県令陸奥宗光は、ペルーと清国の問題に関わ
るべきではないとの立場でしたが、国際社会に日本の毅然とした姿勢を示すべき
であると考えた副島は、太政大臣三条実美から全権委任を取り付け、外交知識が
あり、ヒューマニストとして知られていた若干25歳の神奈川県権令大江 卓に
事を託しました。
大江は、自らマリア・ルス号事件の裁判長となり、ジョセフ・ヒコを通訳とし
て英語で行われた裁判に臨み、奴隷制度そのものである公娼制度を認める日本に
裁く資格がないなどの主張や、仏、独、伊、蘭各国に干渉されながらも、清国側
の主張を認容して、マリア・ルス号の清国人全員が本国に帰されるという結果を
導きました。
大江は、裁判後すぐに、人身売買及び公娼制度の廃止を訴え、司法卿江藤新平
がこれを支持して、太政官令が出されています。
鉄道敷設による横浜駅(現桜木町駅)と関内地区を結んだ「大江橋」は、大江
卓の名を冠しています。