横浜 ・ ゆかりの人々
1 吉田勘兵衛
摂津国能勢(現大阪府能勢町)に生れ、江戸に出て材木・石材商を営みましたが、
新田を開発し、農業経営でも成功をおさめました。明暦2年(1656年)に、大岡
川の河口の入海を干拓しての新田開発に着手し、広大な吉田新田を完成させました。
勘兵衛は、30代半ばにして幕府御用達となり、江戸城の修築に関わっています。
幕府は石高千石に達した地主は社の建立を許すとしていたところ、勘兵衛が南千住
に開いた新田は800石ほどであったため、偶然立ち寄り、新田開発に適した横浜の
入海に着目したということです。勘兵衛によって、横浜に広大な土地が生まれました。
2 高島嘉右衛門
若くして亡父の事業を継いだ嘉右衛門は、棄捐令や親族の放蕩による莫大な借金
を抱えましたが、安政の大地震前に木材を買い漁ったことにより大金を得ました。
しかし、台風によって再び借金を抱えることになり、失意の中、鍋島藩家老の斡旋
で伊万里焼を販売する肥前屋を横浜に開店しました。事業家として再び盛り返した
のですが、今度は、外国人相手に禁制の兌換方法や小判の密売を行った咎により入
牢してしまいます。
江戸所払いとなった嘉右衛門は、横浜で外国人相手の建築・設計をして再び財を
成し、社交場となる和洋折衷の旅館「髙島屋」を経営しました。
鉄道建設の必要性を伊藤博文と大隈重信に説き、自らは入り江の埋め立て工事を
担当しましたが、政府から示されていた線路部分を除いての永代拝領を辞退しまし
た。その業績により、埋立地に「高島町」、指揮をとった山頂に「高島台」と名が
付けられました。
また、語学中心の洋式学校である藍謝堂(高島学校)を設立し、権益を外国に握
られないようにと我国初のガス会社「横浜瓦斯会社」を創設しています。
事業ばかりではなく、「高島易断書」を著し、易聖と呼ばれていることでも有名
です。
3 苅部清兵衛悦甫
慶長6年(1601年)に初代の苅部清兵衛が日本橋から4番目の宿場になる保土
ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役を拝命し、明治3年(1870年)に本陣が廃止と
なるまで、代々の当主が清兵衛を襲名してその任に当たっていました。
10代の悦甫は、初代横浜総年寄の一人に任命され、横浜港の開港、「横浜道」の
整備、河川改修等に尽力し、貿易歩合筋制度の導入により横浜の財政基盤を確立しま
した。
そのように活躍した悦甫は、吉田勘兵衛、高島嘉右衛門とともに横浜三名氏といわ
れました。
なお、本陣に宿泊した明治天皇が「軽部」と記載した金一封を下賜されたことを機
に、11代のときに「軽部」と改称したということです。
4 中居屋重兵衛
中居屋重兵衛(本名黒岩武之助、長じて撰之助)は、上野国吾妻郡中居村(現群馬
県吾妻郡嬬恋村)に名主の子として生まれ、江戸に出て、蘭学者やシーボルトに師事
し、また火薬の研究をして「砲薬新書」を著しました。
寒村である横浜村を神奈川と強弁して開港した幕府は商家に横浜出店を求め、中居
屋を開店し生糸の輸出をしていた重兵衛は、開港した安政6年(1859年)に横浜
に進出しました。重兵衛は、高品質の上州生糸を独占的に販売し、生糸貿易の大半を
占めて莫大な利益を上げ、本町4丁目に「あかがね(銅)御殿」と呼ばれる豪壮な店
舗を建てました。しかし、2年ほどで営業停止処分を受け、重兵衛も文久元年(18
61年)に死亡しています。
しかし、重兵衛の生糸貿易の事業は多くの貿易商に引き継がれたのであり、横浜発
展の礎を築いた一人といえるでしょう。
なお、重兵衛の火薬の知識を求めて多くの人が集まったことから、尊皇の志士との
交流があり、桜田門外で水戸浪士が使用したピストルも重兵衛が用意したという説も
あるようです。
5 リチャード・ヘンリー・ブラントン
イギリス人の土木技術者ブラントンは、灯台建設のため幕府に招かれ、新政府に雇
用されたため明治政府の「お雇い外国人」の第1号といわれ、「日本灯台の父」と讃
えられています。
複雑な海岸線を有する日本が開国、通商するためには、安全な航路の確保が絶対に
必要であり、ブラントンは、全国的に海岸線を調査し、篝火方式から灯台方式に改修・
整備していきました。
それに止まらず、ブラントンは、日本最初の電信線敷設に参加し、東京―横浜間に
模範鉄道を敷設すべきと建言し、それによって鉄道建設も実現していくことになりま
す。
ブラントンは、横浜の外国人居留地の埋立・整備を建言し、日本初の地下埋設下水
道システムを導入し、街灯を敷設し、鉄橋を架け、歩道や公園を造り、防火壁を設け
るなど近代的な横浜の都市基盤を造り上げました。
横浜公園内に胸像が設置されていますが、横浜市は、ブラントン生誕150周年記
念祭を催してその功績を讃えています。
6 エドモンド・モレル
イギリス人の技術者モレルは、1870年4月に夫人を伴って横浜港に着きました
が、イギリス公使パークスの推薦により建築師長に任命され、日本の鉄道建設に携わ
りました。しかし、結核を患っていたモレルは、翌年の11月に鉄道開業を見ること
なく30歳で亡くなり、翌日には25歳の夫人も亡くなっています。
モレルは、枕木に国産の木材を使用するなど日本の実情や将来を見据えた施策をと
り、「日本の鉄道の恩人」と讃えられ、桜木町駅には、「鉄道発祥記念碑」とともに
モレルの「レリーフ」が設置されています。
夫妻は横浜外国人墓地に埋葬されていますが、その功績から1962年に鉄道記念
物に指定されました。
7 ジェームス・カーティス・ヘボン
ヘボンは、米国長老派教会の宣教医(医療伝道医師)として、妻クララとともに長
崎を経由して安政6年(1859年)に横浜に着きました。
ヘボンは、ニューヨークでも名声のある医師でしたが、宗興寺(現神奈川区)に施
療所を開設し、私財をつぎ込み、無償で身分や貧富の差別なく診療にあたり、20年
間に1万人の患者を診たということです。日本初のクロロホルムを使用した麻酔によ
る片足切断手術、西洋義足の装着も行っています。
デュアン・シモンズとともに横浜近代医学の基礎を築いたとされ、横浜市立大学医
学部にその名を冠した「ヘボンホール」(講堂)が設けられています。
妻のクララは、教師の経験を生かして少年を対象とした英語教育を開始しましたが、
ヘボンも、横浜奉行所の依頼で大村益次郎ら9名の幕府委託生に英学を教えました。
その後、当時としては画期的な男女共学の「ヘボン塾」として、ヘボンが医学を、ク
ララが英語を教え、高杯是清(後の首相)、林菫(はやしただす・後の外相)も学び
ました。ヘボン塾は、明治学院やフェリス女学院の源流とされます。
ヘボンは、ヘボン式ローマ字表記を用いて日本初の和英辞書である「和英語林集成」
を編纂し、日本初の聖書の前文和和訳の中心となって活動しました。また、日本初の
使用目薬の販売、日本初の新聞発行、日本初のリゾート施設(現日光金谷ホテル)の
開業等にも関わったということです。